「(『1 コリント』) 13:04 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。6 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。[...] 13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。」

「(『ローマ』) 3:22 δικαιοσύνη δὲ θεοῦ διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς πάντας τοὺς πιστεύοντας. οὐ γάρ ἐστιν διαστολή,
(聖書協会共同訳) 神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
(新共同訳) すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
(口語訳) それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」

"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ" を "イエス・キリストへの信" ではなく、 "イエス・キリストの信" (主格的属格) と解釈するのが、最近の流行らしい。

愛 (ἀγάπη) を "人が神や隣人を愛する" ではなく、"神の愛" と捉えて『1 コリント』を読むと、どうなるのだろう。"神 (キリスト・イエス) の信"、"神 (キリスト・イエス) の愛" まではいけそうだが、"神 (キリスト・イエス) の希望" で頓挫するかな。
『アウグスティヌスの愛の概念 (H. アレント)』を "神の愛" の視点で検討し直す価値はありそうな気がする。

cf. 『教会…なぜ必要?(もういらないのでは?)齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル (https://www.youtube.com/watch?v=3d--ZySVFdM)』
 

5 月 8 日の記事に記した「キリスト教にあっては、神と我の関係が第一で、我にとっての他者は宣教の対象でしかないから、それ以外の人間関係をうまく取り扱えないということではなかろうか」は独り善がりの所感ではなかった。

cf. 「(https://www.jstage.jst.go.jp/article/hets/26/0/26_78/_pdf/-char/ja 『アウグスティヌスに学ぶキリスト教的愛の教えとそのリアリティ (神門しのぶ)』)
〈隣人〉の意味追求を試みるアーレントは、聖書の真理性を所与としない哲学的態度をもってアウグスティヌスのテクストを検討し、隣人愛は「間接性」(57) という性質を免れえないとの結論に達する。
アーレントのこの研究はアウグスティヌスにみられる矛盾点を洗い出す作業から始まるが、そこでは矛盾の存在はむしろアウグスティヌス思想の「豊かさ」と見なされる。彼女がアウグスティヌスの愛概念における諸要素から析出した矛盾点は緻密な手順によって導出されたものであるが、簡潔に記すと次の二点である。キリスト者は神に依拠する至福を得るためには自己否定を求められるため、自己への配慮は神に至る目的の内にとどまるが、自分を愛するように隣人を愛することを命じられている帰結として、隣人もその目的連関に組み込まれている(第一章)。また、創造者による被造物であるところのキリスト者にとって、帰還すべき故国は神の領域であるため、被造者の意志や具体性が成立させている事物や関係性からなる地上の世界は軽視の対象であり、その結果、隣人の個人性も、自己の個人性と同じく、考慮されないことになる(第二章)。これらのことから、「現世とその欲望とに背を向けた信仰者にとって、隣人がどのような意味を持つのかという問い」浮上し、結論として、隣人は個々の存在としてではなく、「普遍的な『人類』」の構成員として考えた時にはじめてその有意性が「理解可能となる」とアーレントは言う。裏を返せば、個人性や具体性を有する状態では隣人の有意性は見いだされなかった。アーレントが吟味したアウグスティヌスの愛の概念において、隣人愛は「ある種の距離感と間接性が最後までついてまわ[る]」ものであった。
アーレント自身はこの結論を否定的に捉えてはいない。しかし、現実に出会う一人の人間の具体的な姿を抜きにして、神とのつながりという部分のみを拠り所にしてその人とつながるという考え方は、たしかに、裂け目や間接性といった否定的な観念を招き寄せるものかもしれない。だが、アウグスティヌスのキリスト教理解は彼の独創ではない。キリスト者の抱く第一義的な愛が被造物を対象とするものであってはならないことは新約聖書が明確に教えている。
(57) H.アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』千葉眞訳、みすず書房、2004年」

私の思い付きに、敬愛する哲学者 H. アレントの言説につらなる部分があるとしたら、とっても嬉しい。

マタイ18:35「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

被害者に対して「加害者をゆるしなさい」と言い募る、そんなクリスチャンはいないことを祈りたいものだが、いたとしたら、かかわりをもたないことだ。

それはそれとして、この聖句をネタとする説教を漁ってみたが、ピンとくるものに巡り合わなかった。
キリスト教にあっては、神と我の関係が第一で、我にとっての他者は宣教の対象でしかないから、それ以外の人間関係をうまく取り扱えないということではなかろうか。二義的な問題だしまじめに取り組む甲斐がない、との考えが心の底にあれば、真剣に向き合うことはむつかしいだろう。
 

cf. https://note.com/ichurch_me/n/n16d3374af760 ぼやき牧師|富田正樹 2022年4月17日 18:43

 

2024-05-09 追記: この問題に一般解なんて求めようがないのだから、「ピンとくる」説教を期待することに無理があるのかもしれない。