5 月 8 日の記事に記した「キリスト教にあっては、神と我の関係が第一で、我にとっての他者は宣教の対象でしかないから、それ以外の人間関係をうまく取り扱えないということではなかろうか」は独り善がりの所感ではなかった。

cf. 「(https://www.jstage.jst.go.jp/article/hets/26/0/26_78/_pdf/-char/ja 『アウグスティヌスに学ぶキリスト教的愛の教えとそのリアリティ (神門しのぶ)』)
〈隣人〉の意味追求を試みるアーレントは、聖書の真理性を所与としない哲学的態度をもってアウグスティヌスのテクストを検討し、隣人愛は「間接性」(57) という性質を免れえないとの結論に達する。
アーレントのこの研究はアウグスティヌスにみられる矛盾点を洗い出す作業から始まるが、そこでは矛盾の存在はむしろアウグスティヌス思想の「豊かさ」と見なされる。彼女がアウグスティヌスの愛概念における諸要素から析出した矛盾点は緻密な手順によって導出されたものであるが、簡潔に記すと次の二点である。キリスト者は神に依拠する至福を得るためには自己否定を求められるため、自己への配慮は神に至る目的の内にとどまるが、自分を愛するように隣人を愛することを命じられている帰結として、隣人もその目的連関に組み込まれている(第一章)。また、創造者による被造物であるところのキリスト者にとって、帰還すべき故国は神の領域であるため、被造者の意志や具体性が成立させている事物や関係性からなる地上の世界は軽視の対象であり、その結果、隣人の個人性も、自己の個人性と同じく、考慮されないことになる(第二章)。これらのことから、「現世とその欲望とに背を向けた信仰者にとって、隣人がどのような意味を持つのかという問い」浮上し、結論として、隣人は個々の存在としてではなく、「普遍的な『人類』」の構成員として考えた時にはじめてその有意性が「理解可能となる」とアーレントは言う。裏を返せば、個人性や具体性を有する状態では隣人の有意性は見いだされなかった。アーレントが吟味したアウグスティヌスの愛の概念において、隣人愛は「ある種の距離感と間接性が最後までついてまわ[る]」ものであった。
アーレント自身はこの結論を否定的に捉えてはいない。しかし、現実に出会う一人の人間の具体的な姿を抜きにして、神とのつながりという部分のみを拠り所にしてその人とつながるという考え方は、たしかに、裂け目や間接性といった否定的な観念を招き寄せるものかもしれない。だが、アウグスティヌスのキリスト教理解は彼の独創ではない。キリスト者の抱く第一義的な愛が被造物を対象とするものであってはならないことは新約聖書が明確に教えている。
(57) H.アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』千葉眞訳、みすず書房、2004年」

私の思い付きに、敬愛する哲学者 H. アレントの言説につらなる部分があるとしたら、とっても嬉しい。