いい先生を選ぼう! | フランスの自然療法で美しいからだとこころを手に入れる Île des fleurs Paris イル・デ・フルール・パリ

フランスの自然療法で美しいからだとこころを手に入れる Île des fleurs Paris イル・デ・フルール・パリ

パリ在住19年のTomomiが、フランス本場アロマテラピーや自然療法のお話、日常生活をお届けします

こんにちは。アロマトローグのTomomiです。

 

2月の日本セミナー・レッスンの一般ご予約承り中!

【⑴ セミナー 『ラベンダー徹底解剖!-ハーブ・精油・香料-』】
東京会場 : 2月9日(日)10時30分〜12時00分
大阪会場 : 2月14日(金)10時30分〜12時00分
 

【⑵ レッスン 『古今東西 癒しのメソッド-呪術と薬、自然療法-』】
東京会場 : 2月9日(日)13時00分〜16時10分(3時間)
大阪会場 : 2月14日(金)13時00分〜16時10分(3時間)
 

【⑶セミナー 『質問セミナー❶❷』】
❶東京会場 : 2月11日(日)14時00分〜15時30分
❷大阪会場 : 2月15日(金)10時30分〜12時00分
 

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最近、近所の人たちと話をする機会が多く

新しい地元を知らないので、いろいろと情報収拾をしています。

特に娘の中学校について、リサーチ中。

地元の公立か、地元の私立か、それとも越境するか。

 

これまでの経験からすると、娘が学校を楽しめるかそうじゃないかって

「先生」によるなーと思っているんです。

学校というよりも、担任による。

でも、担任が誰になるかは、学校を決めるときにはわからないんですよねー。

ということで、まだ数年あるので、悩もうと思います。

 

アロマでもなんでも、習うものって先生の質によりますよね。

大人になってからの学習は、先生の質の他に、その人との相性もあると思いますが。

 

そんなことを考えていたら、読んでる本でも「先生による」ということが印象に残るんですよね。

偶然、ヴェサリウスという人物のくだりを読んでいたら

「先生に心底失望した」と書いてあったんですよ。

 

この人、近代解剖学の父みたいに言われている人なんですが

自身が医学の勉強をしているときに学んだ先生たちにがっかりしたそうです。

「教科書をただ読むだけ」

「生徒のレベルがまだ低いと決めつけ、教科書を半分しか終わらせない」

「ヒトも同じだからと動物の解剖しかしない」

という感じだったそうです。

 

あ、これ、明らかにダメな先生ですよね。

先生自体がレベルアップを諦めているから、教科書をただ読むだけの授業をしてしまう。

その教科書も実は、ちゃんと理解してないかもしれません。

だから、読むことしかできない。

 

生徒のレベルが低いと決めつけるっていうのもありがちです。

私は「Tomomi先生」と呼ばれるのが嫌いです。

だって、先生じゃないから。

私の中では、先生と呼ぶべき領域にたどり着いていませんし(笑)

自分自身がまだまだ勉強の身。

何か特定の分野に関しては、受講してくださる方よりもちょっぴり知っているだけなのです。

そんなたいそうな身分じゃないので「先生」と呼ばれてしまうと恐縮しちゃいます。。。

日本って「先生は絶対」みたいな空気がありませんか?

一方的に偉い人が「教えてあげる」という上下関係が好きじゃないのです。

少なくとも、私のレッスンを受けたことがない人は

私をTomomi先生と呼ぶ理由はひとつもありませんよー(笑)。

 

脱線しましたが、先生と生徒の差ってそんなにないと思うんですよねー。

このヴェサリウスのように、歴史に名を残すような偉業を遂げる人だって、最初は生徒なのです。

生徒の中にも素晴らしい人はたくさんいると思うので

「生徒はレベルが低いから、こんなことやったって理解できるわけない」という偉そうな態度はどうかな。

まだ経験が浅いので理解できない人もいるかもしれないけど

先生と名乗るからには、全身全霊でたくさんの情報を与えてほしいと私は思います。

 

「ヒトと同じだから動物解剖で済ます」というのも、ダメですよねー。

補足しておくと、この時代、徐々に人体実験をする学校が増えてきました。

他の学校はヒトで解剖しているのに、この先生は新しい流れを無視しているわけです。

それまで「ヒトと動物の臓器は一緒です」の時代だったのですが

「そうじゃないかもよ?」「習ってきたのとは違うかもよ?」となったときに

旧説に固執するとは、医学の発展を願う人ならしないのでは?

せっかく先生のポストについたのに

「知らないことがある」「もう一度学び直し」というのは

リスクがあるし、沽券に関わるといって、避けたんでしょうねー(勝手に推測)。

 

40年以上も生きていると、いろいろな方に出会います。

私が「この方、すごい尊敬できる!」と思う人って、絶対に偉そうにしません。

常に謙虚。年齢がずいぶん離れていても、私を尊敬し、対等に扱ってくれます。

それこそ「先生」と私が呼びたい人もたくさんいますが、みなさん謙虚です。

謙虚なのは対人関係に関してで、仕事内容に関してはとても自信がある。信念がある。

 

ヴェサリウス本人がどういう人間像なのかはわかりませんが

少なくとも、彼の先生というのは、時代の転換期を迎えていることを

見えないふりをしていたか、気づかないほど鈍感だったかで

人に対して多少優位に立てる「先生」というポストを守ることしか頭になかったのかなあ。

 

仮にも私もレッスンをしているので、先生と呼ばれることがあるのですが

なるべく専門外の領域も幅広く知識を備えて、多角的に考え

なるべく時代の流れを見て、アップデートにつとめ

なるべく生徒さんの声を聞いて、わからないことを誤魔化したり、わかったふりをしない。

ということをモットーにしています。

生徒さんが先生を超えるというのが、先生にとって一番光栄なことだと私は思っています。

だから、先生が偉い!先生は絶対!という考えは、私は好きではありません。

逆に私が学ぶときには、生意気な生徒だと思われているかもしれませんが

幸い、私の先生たちはみな、尊敬できる謙虚な先生たちばかりでした。

先生、生徒じゃなくても、人と人との関わりは、尊敬し合いたいものです。

 

歴史の本から「先生」について考えさせられた1日でした。






こちらはレオナルドの解剖デッサン