こんにちは!
うずめカフェ・巡禮記の松本育子です。
今日は、いつも秋に開催の
巡禮記の岡山ツアーのテーマである
【祈りと呪詛】のお話を。
今年の岡山ツアーは11/11〜12です!
まだ申し込み受付中✨
【祈り】と【呪詛】って実は同じ材料、
もとは同じ心のエネルギーからできています。
ベクトル、向かう方向が違うだけ✨
そんな前回の祈りの話☟
のつづき、
今日は【呪詛】について。
呪詛ってなんでしょうか。
毎日の暮らしが祈りではなく、
無意識にくり返す【呪詛】で満ちていると、
常に、どこか身体が過度に緊張していたり
余分な力が入ってしまうでしょう。
【誰か】の感動の人生をなぞって
自分もそのようにならねば!と焦ったり
【誰か】の教えとか言葉、信条を、
咀嚼できないのに、無理やりその通りに
やらなきゃ!できない!と不安になっていたり。
【誰か】を尊敬してるのはいいけど
自分にも完コピでそのように
生き続けることを強いてしまったり。
これも一つの呪詛です。
または、逆に出ると、
【誰か】の人生に反発して
反面教師的に生き続けることで
自分のアイデンティティを嘘で保ってしまう。
【誰か】の教えや言葉のせいにして
自分が認めたくないことや
不都合などを棚上げし
被害者であり続けることで
リベンジに生きる時間を使ってしまう。
【誰か】を尊敬している人たちを
馬鹿にすることや貶すことで
マウントを取りプライドを保ってしまう。
もちろんこれは一例です。。。が
呪詛って習慣化すると
こういう方向に入りやすいです。
いろんな形で出てきますが
自分ではない「誰か」を人生の玉座に据えて
どれも本人がしんどいのが共通項です。
アクセルとブレーキを同時に踏むやつ💦
その、呪詛で出てくる、
あなたが人生の
感動と理解と尊敬を明け渡してしまう
【誰か】とは、何でしょうか。
幼い頃に刷り込んでしまった
もはや実態の無いわからないものだったり、
父母への思いが膨れ上がった影像だったり、
もはや、名前もわからない誰かの
社会の集合体だったりもします。
「こうだ」と強く教えられたことに
幼い自分が反発できなかったことへの
理不尽や未練や罪悪感などが
自分にかけ続けている
【呪詛】と言う名の思い込み、刷り込みに
変わっていって人生を支配してくることも。
例えばね。。。
「人に認められなければ生きている価値がない」
「人はいつか離れていく。自分はいつ裏切られても蔑まれてもおかしくない。人が周りにいるのはどこかにメリットがあるからだ」
「うちの家系の背負ってきたものはとても強固だ」
「私はどうせ母より幸せになってはいけない。」
「幸せになっていいなんて親は教えてくれなかったのだから、幸せになってやるもんか。きちんと育てて教えなかった親を簡単には許さない。だから不幸でいる」
「あの親から生まれた私は愛されるはずがない」
「あんな教えを強要されてきたのだから、仕返しにあいつらの嘘を暴いて生きてやる」
「豊かになることは、足りない何かを埋めることだ」
こんな感じの思い込み、呪詛たちです。
他にもたくさんあると思います。
岡山ツアーは、
呪詛をしばきにいくツアーっていう
副題なんです。
しばく、ってつまり
呪詛方向から祈りの方向へ切り替えること。
使うエネルギーは同じなんだから
それを切り替えて、
あなたが いい時も悪い時も
自分の人生に感動し続けるため。
自分の1番の理解者でい続けるため。
懸命に生きる自分を尊敬し続けるため。
そしてそこから、周りにいてくれる人たちと
一緒に人生の感動を分かち合うため。
自分の感じる豊かさを、
無限にあるこの世界の材料から
あなただけの形にして循環させるため。
矛盾してるようだけど、
大切な人の1番の理解者となって、
尊敬し合い、愛し合い、許し合う、
共に活きる 幸せの形を許すため。
自分が握りしめていた形を明け渡すためです。
岡山ツアー宿題の巡禮まんだら、裏まんだらは、
巡禮記のホームページから無料ダウンロードできますから、
参加される方も、みなさんも
ざっくりでもいいですので書いてみてね。
自分の呪詛と思う思い込み、その前の感情も
書いてきてもらうと
自分の祈りと呪詛が見えてきますよ。
呪詛だらけでも大丈夫!
その反転した祈りは必ずセットで存在するので
呪詛が多いのは、たくさんの祈りが存在し
豊かになれる証です✨
どんどん「大丈夫」と「自由」が増える。と
決めて、動いて行きましょう!
岡山最上稲荷を中心に据えたこのツアーは
先達チームも腹据えて構えており、
そして全力で応援すべくお待ちしています^_^
松本育子
最後まで読んでくれてありがとうございます!