397-エディーよ、さよーなら | ikoma-gun(フリムン徳さん)のブログ

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「エディーよ、さよーなら」 

人が死ぬ時は何かの「ムシの知らせ」をする。

その「ムシの知らせ」がフリムン徳さんの私にあった。

先月の“フリムン徳さんアメリカ便り第6号”に

「思い出のアーケーディア」の中に、隣に住んでいた

私の大好きなエディーのことを書いた。

皆さんもまだ覚えていると思います。

第6号が皆さんに配信されて2、3日して、娘のまきこから

電話が入った。「パパ、エディーが死んだよ」。

一瞬呆然となった。




人間の死は突然にやってくるんだなあ、

を再確認すると同時に、人間の命のはかなさを

身に染みて感じた。 

 クリスマスも前の12月18日に死んだという。

しかし私はエディーの死んだ日が気になってしょうが

なかったので、コンピューターのこの日の私の記録を

いろいろ調べて見て驚いた。

なんと、この18日に私は必死になってエディーとの

アーケーディアでの昔の思い出を思い出しながら

「思い出のアーケーディア」というテーマで彼のことを

書いていたのだ。私が彼のことを書き連ねている日

に彼は死んでいたのだ。

文章の書き方を勉強中の私はそうすらすらと

文章は書けないのに、このエディーについてのエッセイだけは

信号無しのフリーウェイを車が走るように

スムーズに筆が進んだ。

俺も文章が早く書けるようになったなあと思ったりもした。

今考えると彼が私に書かせていたのだろう。



これを「ムシの知らせ」というものでしょうか。

「思い出のアーケーディア」を読んだ皆さんも何かの縁です。

どうぞ彼のご冥福を祈ってください。

エディーよ、さよーなら。? 

娘のまきこから聞いた彼の死に際はかわいそうで涙が咽んだ。

目の悪い彼は車の運転は出来ない。

週に何回か運動がてらに、かすかに見える視力に

白い杖をついて近くのレストランへ歩いて行く。

週に2回は長年通っている近くのゴルフ場へも歩いていく行く。

白いボールは見えないので黄色いボールで打つ。

ショッピングは93歳になる妻のオデッサが運転して二人で行く。



18日の日は彼がいつものように1人で白い杖を頼りに

行きつけの近くのレストランへ向かっていた時に異変が起きた。

彼が走ってきた車に引かれそうになったらしい。

車が悪いか、彼が悪いか、それはわからない。

怪我はなかったものの、目のみえない彼には大変な

ショックだったに違いない。

優しい彼は車の運転手には「OK、OK」と言って

そのままレストランへ向かったに違いない。

レストランに着くと真っ青な顔になった彼を見た

ウェイトレスが慌てて椅子に座らせて

「どうしたの!!」と聞くと「車にひかれそうになった」。

それが彼の最後の言葉だったらしい。

椅子に座ったまま心臓麻痺で倒れて、救急車が来る前に

息を引き取ったとのこと。

彼は90歳だった。 



 エディーは体格の大きい人だった。

背丈は2メートル近くあった。

昔プロのバスケットボールの選手だった。

あの有名なバスケットボールの選手”コビー”にも

バスケットボールを教えた人であった。

そして、ゴルフのハンディは2であった。

優しそうな、優しそうな、ニコニコ顔で、

誰とでも接してくれた。

「白人のあなたが、どうして日本人を差別しないのですか」と

尋ねた事がある。

「徳さん、人間は人種じゃないよ、人間は色じゃないよ、

体格じゃないよ、心だよ、」ゆっくりと答えてくれた。 




 私は一人になった老婆のオデッサが気になってすぐに

電話をした。

オデッサはすぐに私とわかって、「徳さあん、徳さあん」と

さんの間にあの字まで入れて泣き崩れる。

アメリカに住んで30年、ふつうのアメリカ人は 

徳さんと言う私の名前が覚えにくいのと、

言いにくいのでなかなか徳さんと呼ばない。

徳さんじゃなくユーですましてしまうが、

エディーとオデッサは徳さんと呼んでくれる。

ただ、あんたと呼ばれるよりは自分の名前を呼ばれるのは

気持ちがいい。

だからよけいに情が移る。



泣きながらゆっくりと言う彼女の言葉がまた私を揺さぶった。

「目のみえない彼を残して、93歳になる私が死んで

なるかと毎日頑張って生きてきた」という。

これを聞いて泣かずにおられるかいな。

近くだったら飛んで行ってあげたいが遠すぎてどないに

も出来ない。

人間90歳以上まで生きると周りの知り合いが順番に亡くなって、

頼れる人が少なくなる。

葬式もしないで、ただ焼いてもらっただけらしい。

オデッサがかわいそうでならない。? 

アメリカなのに隣近所がチャイネィーズばかりでは言葉も

習慣も違うから親しく付き合っている人はいなかったらしい。

よほど淋しく、心細かったのだろう、私の娘のまきこに

エディーの死を2週間たってから電話で知らせてきたらしい。

まきこは私や嫁はんと似て年寄りが好きで、

年寄りの世話をよくやる。これはどうも親譲りらしい。



オデッサも行き付けのマーケットまでの運転できるが

遠くは運転できない。

だから、まきこが、仕事の休みの日に1日ドライブして

オデッサを連れて、役所を回り、死亡届や、いろんなエディーの

手続きをしてあげるらしい。

私はそれを聞いてまた泣かずにはおれなかった。



この残された93歳の老婆オデッサはアーケーディアの

家を売って、ミゾーリー州の80何歳かになる妹の

ところへ引っ越して一緒に住む事になったらしい。

でも慣れないところで93歳になってからの同居生活が

どうなるのか心配でならない。

豚味噌の美代ねーだったら島ユミタで、

「ハギー、オッデサ ヌ キムチャギさやー」と

言うに違いない。

長生きした孤独の老人が安心して住める世の中は

どないにしたら出来るのやろうか。

個人の自由を重んじるアメリカ、それを真似る日本、

これでいいのでしょうか。



こういう孤独のアメリカ人の年寄りを見ていると、

よけいに喜界島の昔の生活がよみがえってくる。

「“貧しくてもええ”同じ屋根の下で、おじいちゃん、

おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供達が一緒に

生活して、おじいちゃん、おばあちゃんが孫の面倒を見、

子供がおじいちゃんおばあちゃんの面倒を見、

子供を産むのも自分の家で、死ぬのも自分の家で」、

私はこんな喜界島の昔の生活にあこがれる。