398-老人の私にもまだ夢がある | ikoma-gun(フリムン徳さん)のブログ

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「老人の私にもまだ夢がある」   

 ”これで俺の人生終わり”と思ったのは58歳の時であった。

高血圧、心臓肥大、関節炎、痛風で、倒れた。

医者に、「もう働たらいたらアカン」と言われた。

頭が真っ白になった。

よく、頭が真っ白になったと聞くが、真っ白ではなく、

少しくすんだ白色だった。

その白色は目ではなく、心で見えた。

初めて心で見る色だった。

心では色が見えるようである。

私の人生最後の夢も実現できないのか、

と人生の不運を悔やんだ。

26年間ロスアンジェルス、シアトル、サンフランシスコで、

お客さんの大工仕事ばかりをしてきた大工が最後は

自分の家を自分で手造りで家を建てる夢だった。  

その夢のために18年前に土地を買ってあった。

カリフォニア・モントレーの山の中の28エーカー(34000坪)。

何もない山の中の土地にアドレスをつけてもらうことから始まった。 

 家を建てるパーミットを取った。

1番最初に井戸を掘らせた。

いくら器用の私でも井戸は掘れない。

7000ドルかかった。                                 


井戸以外はヨメハンと二人でできる。

いよいよ仕事の合間の時間で私の人生最後の夢が実現の

スタートだ。

見晴らしのいい小山の中腹に、ヨメハンと二人で、6フィート

(2メートル)の深い穴を掘り、電柱を立てて、

メーターボックスの配線をし、電気をひき、家のコンクリートの

ファウンデーション(基礎コンクリート)、

フラミング(上下水道工事)、屋根工事全部二人で仕事の

合間にやった。それこそ、雨の日も、風の日も、

出来上がった真新しい家を頭に描きながら、頑張った。

早く完成したくて、1分の時間も無駄にできない毎日だった。

 屋根も仕上り、壁の下地の板を張り、ウインドウを

入れようと、ウインドウを捜しているある日、

足が痛いので20数年ぶりに医者へ行ったら、

その場で強制入院させられのだ。退院しても働けない。

仕事ができないから収入がない、みるみる金は羽が

生えているように飛んでいった。

ほんとに札が鳥の羽に見えた。

おまけに、有り金をほとんどを家に注ぎこんでいた。

すぐに金は底をついた。

これでは夢を実現できるどころか、生きていくことも出来ない。

身体も動けん、飯食う金もない、夢も潰れた。

歳も58歳、死ぬんでもいい条件がほとんど揃った。

死ぬのが1番の近道に見えた。

「もうアカン、これでわいの人生は終わりや、」 ばかりが

頭の中であばれまわった。 

ところが世の中はどうにかなるもんで、 

デイスアビリテイ(身体障害者)年金がもらえるようになった。

生活するには足りないがお客さん、子供達、

日本の弟妹が助けてくれた。

つくずくソウシャルシキュリテイ(年金)を払っていてよかった、

と胸をなでおろし た。

死んでたまるか。

また夢が沸いてきた。

ベッドに寝転がって、本を読んでいるうちに、

喜界島を出て、数え切れないほどの仕事を変えながら、

大阪、パラグアイ、アメリカで経験したことを本に

できんかと夢みたいな夢が頭の中に現れるようになった。

 そんな時に、サンフランシスコの日米タイムスに

新年エッセーコンテストの募集が目に止まった。

26年間大工をして、文章とはまったく縁のなかった私に

文章を書くのは無理とわかっている。

でも、身体を使えない私にできるのは本を読むことと

書くことだけである。それしかない。

書いてみようと思った。

1ヶ月以上かかって、2400字のエッセーをまとめて、応募した。

原稿用紙もなかったから、何十年か前の古くて薄い水色の

半透明の便箋紙に書いて送った

。大工が家を建てるのじゃなくてエッセーを書いた。

大工が言葉で家を建ててみた。

はたしてどうなるか。発表の日まで、ウヤフジ

(ご先祖様)に祈り続けた。

 正月2日に配られた日米タイムスの中に“3位入賞

『上園田徳市』”ときらきらに輝いているではないか。

その光は私の目から私の体に入って、身体中に光り輝いた。

私はその時光る人間になったみたいだった。

いや、蛍のように光出す人間になっていたかもしれない。

死なないでよかったとつくづく、思った。生きる望みが出来た。

元気がもりもり、バリバリと音を立てて出てきた。

ここで私の夢は家を建てるのじゃなく、

本を書くことに変わってしまった。

 自分史を書こうと決心した。

『どうしたら、文章を上手に書けるか』で頭の中が

いっぱいになった。目が腐るほど本を読んだ。

文章の添削指導の広告を見つけて、

手書きのエッセーを書き送った。

NYや東京の友達にへたくその文を送って添削してもらった。

1年間で、75篇のエッセーを書いた。

今年のエッセーコンテストにシアトル、サンフランシスコ、

ロサンゼルスの日本語新聞社に2篇ずつ8編を応募した。

なんと5編が同時入賞してしまった。

大工の書いたエッセーが一度に5編入賞でっせー。

信じられますか、考えられますか。




この場合は勝の字の前に優の字を入れて、

”5優勝3敗”と言って、嫁はんに自慢をした。

シアトルは1位と佳作でダブル入賞や。

それから、大阪産経新聞夕刊のフロントページには

2回も掲載された。

 今度は、東京の文芸社から共同出版しようと手紙が来た。

私は、病気と家に金を注ぎこんでそんな金があるはずがない。

そしたら、喜界島の中学時代の同級生と

私の妹夫婦が金を集めて、『フリムン徳さんの波瀾万丈記』

として出版してくれた。それが面白いというので、

喜界島の同級生は「フリムン徳さん応援団」を作って、

喜界島の町長までも捲きこんで、売りまくっている。 

日本全国の300の書店に並べられた本も売れて、

もう紀伊国屋書店にわずかしかないと言う。

これで私の夢は実現できたと安心する間はなくなった。

第3版も増刷された。

今度はベストセラーにするんだと張りきっている。 

私にはまだ夢がある。”諦めたら、あかんねん”