野菜は大事である。
なのでとにかく野菜を取りたいので最近は野菜炒めをよく作る、
そのためにキャベツだとか人参、ピーマンのような野菜炒め定番の野菜はよく買うのだが、
一度に使い切れないので同じ具材で炒め物が続いてしまう。

料理レベルの高い人であれば同じ材料で全く別の料理も思いつくのだろうが、
レパートリーが貧弱で考えるのもめんどくさい私はとりあえず炒め物にしてしまう事も多い。

しかし、それでも最近はしょっちゅう同じような物を作って飽き飽きしながら食べているというわけでもなくなってきた。
「野菜炒めは味付けが違えば別の料理」という考えに至ったのだ。

例えば醤油味の野菜炒めを食べた次の日に同じ具材でケチャップ味の洋風炒めを作った場合、
また「野菜炒めか・・・」ではなく「昨日は和風の料理で今日は洋風の料理だ」と思える。

そういうわけで近頃は自分の勘で適当に調味料を組み合わせてみたり、ネットで探してみたりして野菜炒めの味付けの探求に凝っている。
定番の焼肉のタレ炒めや中華スープの素で中華風炒めにしたり、

ケチャップとコンソメの素で洋風にしたり、マヨネーズをベースにして醤油や味噌を混ぜてみたり、
ドレッシングで味付けしてみると加熱によって酸味がいい具合に飛んで生のサラダにかけた時とは違う味わいで美味しかったり、
結構いろいろな発見があって楽しい。

とはいえ家にある調味料の種類にも限りがあるので、合う組み合わせの限界も見えてくる。
そろそろ野菜炒め以外のレパートリーの拡充も考えなくては。

虫が活発な季節に入り、ついに先日我が家でもゴキブリが出没してしまった。
家は綺麗とまではいかないまでも不衛生にはならないように心がけているつもりだが、年に数回は見かけてしまう。

しかし、なぜ家にゴキブリが出るとここまで嫌な思いをするのだろう。
考えてみるとチョウバエやハエトリグモ、ヒメマルカツオブシムシなど家の中に出てしまう虫はゴキブリ以外にもそこそこいるが、
ゴキブリは見かけた時の不快感や恐怖はそれらの虫を見た時とは段違いで、思わず声を上げてしまったりする。

なぜかと考えてみたが、やっぱり大きさというか存在感だろう。
屋内でよく見かけるハエトリグモは1cmに満たない物が多く、カツオブシムシやチョウバエもそれより小さいが、
日本の家屋で多く見かけるクロゴキブリは平均して3cm~4cmほど、大きい。存在感がある。

ちなみに昔はゴキブリと並んで家の中で出る嫌な虫の代表だったという便所コオロギも大きさは2cm前後あったそうで、
その上、コオロギと呼ばれるだけあってジャンプしてくる、それで存在感があるのが気持ち悪かったのではないかと思う。

そういえば前に家の中に数cmぐらいの蛾が入ってしまった時も結構ビビりながら追い出した記憶がある。
おそらく綺麗な蝶だとしても家の中に入ってきたらきっと必死になって追い出そうとすると思う。
蛾も蝶も屋外で見かけたら気にならないが、家の中で羽ばたかれたら存在を無視できない。
逆にゴキブリを外で見た時もあまり気にならない気がする。

つまり小さくて飛んだり跳ねたりしない虫は存在感も小さいので家の中にいても多少は許せるが、
数cm以上あったり飛んだり跳ねたりして存在感が大きい虫は家の中で見ると怖いということだ。
家はパーソナルな空間で虫は侵入者のようなものであったり、壁があって閉じられた空間だったりすることもあって、外とは基準が違って来るのだろう。

もしかするとゴキブリも数mmぐらいの大きさにしかならず、飛んだりしなければ家の中にいても気にならなくなるかもしれない。

しかしゴキブリは見た目が不快なだけの不快害虫ではなく人間に病気を引き起こす雑菌を保有している可能性もある害虫であるようなので、
小さければ出てもかまわないという物ではないし、なんにしてもゴキブリが出ないように家を清潔にすることは大事だ。

5月ももう後半ということでそろそろ模様替え、冬物のカーペットにこたつ、寝具などを片付け、夏用のものを出してこなければならない。

そこでいつも問題が発生する、今出してある冬物はどこにしまえばいいのかわからない。

夏物を出して空いたスペースに入れるだけだろうと思って模様替えを始めるのだが、
「さぁしまうぞ!」と夏物をひっぱり出した跡地を覗いても、どう見ても冬の嵩張る羽毛布団や毛布が入るほどのスペースがない。
その上こたつ布団やホットカーペットなど、夏物と入れ替わらない冬オンリーの物もある。

夏物跡にむりやり押し込もうとあーでもないこーでもないと入れ替えてみたりしてる内に、だんだんと去年どうしたか思い出してくる。
絨毯は夏物と入れ替えでリビングのクローゼットにしまって、ホットカーペットとこたつ布団は廊下の物置か和室の押入れ、同じリビングで使う物なのにバラバラだ。
寝具も確か毛布は寝室のクローゼットで、羽毛布団は和室の押入れに入れていたはず。

要は同じ場所で使う物でもバラバラな場所にしまっていて法則性がないから覚えられないのだろう。

 

大雑把な私は季節物に限らず普段から色々な物を適当にポンポンと詰め込んでいってしまうので、

途中で収納がいっぱいになり同じジャンルの物を一ヶ所にまとめてしまうことができず、とにかく入る場所を探し求めてあっちこっちに仕舞った結果分散してしまったのだ。


本当はきちんと家全体の収納を整頓して、ジャンルや用途ごとに揃えて仕舞うようにすればいいのは分かっている。
最終的に全て仕舞う事はできているのだから容量は足りていて不可能ではないはず。
しかし家の中の収納を横断して整頓する気力はない。
毎年最後にはどこに仕舞うか思い出せているのだから問題ない、と冬物達はめちゃくちゃに仕舞われたまま収納の扉は閉じられる。

インターネットは世界中のパソコンやサーバーが物理的に繋がって成り立っている。

当たり前のことなのだが、長年インターネットを使っていてもいまいち実感が湧かない。

 

普段インターネットで何かを発信する時には何がどのように繋がっているのかなんて少しも意識していない。

例えばX(旧Twitter)に「今日は快便でした」などというくだらない話をXに投稿すると、Xのタイムライン上にそれが表示されている。

私の目に見える出来事はただそれだけで、それが普通のことだと思っている。

 

ではX(旧Twitter)の入力欄に「今日は快便でした」と入力、ポストするボタンを押して、実際に投稿されるまでに裏ではどうなっているのか想像してみる。

Xはアメリカの企業だから多分サーバーもアメリカにあるだろう。

つまり私の「今日は快便でした」という投稿のデータは家の前の電柱に繋がった回線から海底ケーブルを通って海を渡る壮大な旅を経て、遠いアメリカのXのサーバーに到着しているのだ。

それも一瞬のうちに。

技術の粋を集めて作られた通信網を私の便の話が通っていく、そんな大それた事をしているつもりは全然なくポロッと思った事をつぶやいただけなのに。

こんな事にそんなすごい技術を使ってよいのだろうかと少し悩んでしまう。

 

でも実際インターネットはそんなくだらない話の発信にも気軽に自由に誰でも使う事ができる。

稚拙だがすごいとしか言えない。インターネットはすごい。

今日、春分の日と9月の秋分の日は祝日である、しかし同じ日照時間に関わる二十四節気の夏至と冬至は平日、なぜだろう。
ちなみに春分秋分夏至冬至を合わせて二至二分というそうだ。

調べてみると春分・秋分の日は元は「皇霊祭」という皇室の行事が行われる祭日だったのが今では祝日として残った物で、
夏至や冬至にはそのような行事は特に無かったからという事だった。

そもそも春分の日と秋分の日は「国民の祝日に関する法律」(祝日法)では、
春分の日の趣旨は「自然をたたえ、生物を慈しむ日」、秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日」とされている。

しかし、この祝日法は戦後間もない昭和23年に制定された物で、
それまでは皇室が宗教的な行事や祭りを行っていた日を「祭日」としていた日が、
当時の色々な事情で名前や趣旨を変えて皇室や宗教に関わるような要素が排除された祝日に変更されている。
春分・秋分の日も祝日法制定以前には祭日であり、この世と死後の世界が近づくお彼岸の中日である事から、
「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」という皇族の霊を祭る儀式が行われる祭日だった。

それが祝日法の制定にあたって同じ日を祝日としつつ、皇室や宗教的な意味を排除するために
新たな名前と趣旨が付けられ「自然をたたえ、生物を慈しむ春分の日」「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ秋分の日」に改定されたという流れのようだ。

秋分の日が「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日」はわかりやすくお彼岸に通じるイメージだが、
春分の日が「自然をたたえ、生物を慈しむ日」なのはなぜなのだろう。
それは、政府広報のHPによると「『自然のあらゆる生命が若々しく盛り上がる時』であるため」だそうだ。
おそらく春のイメージに合わせたのだろう。

とにかく、春分・秋分の日は祝日で、夏至冬至は平日なのはどうしてかというと、

今では春分・秋分の日でも元は「皇霊祭」だから夏至や冬至とは関係ないという事だった。
 

どうせ別の趣旨を付けて「春分の日」「秋分の日」として祝日にするなら、夏至と冬至にも何か趣旨をくっつけて祝日にしてほしかったな

なんて考えている間に春分の日ももう終わりである。