ゴールデンスランバー・もうひとつの結末 -2ページ目

ゴールデンスランバー・もうひとつの結末 その2

      『Golden Slumbers Another End 2』

 樋口晴子

 横断歩道の信号は赤だった。構わずに渡るつもりだったが、すぐ向かい側に警察車両が停車しているのが見え、ブレーキをかけた。甲高い音が短く、早朝の街中に反響した。静まり返ったビルの窓が途端に、自分を睨むようにも感じた。あたりは冷え冷えとした暗さで包まれている。空は暗い色で、うっすらと雲が散らばっている。警察車両の屋根で、音こそなかったが赤色灯が照っていた。
 交差点の角に、背の高い銀行のビルがある。営業時間外であるから、シャッターが閉じているが、その前に立っている男がいた。
 菊池将門だ。両手をシャッターにつけている。制服警官がしゃがみ、彼の靴や足の部分を触り、ボディチェックをしているのだ。
 いても立ってもいられず、ペダルを踏んだ。信号は赤のままだ。勢いをつけ、横断歩道を渡る。歩道に到着したところで、前輪がまた、路肩にぶつかった。ブレーキをかける。歩道脇に乱暴に止めると、すぐに身体を反転させ、「将門君」と大きな声を出して、駆け寄る。
「樋口さん」菊池将門が両手をシャッターにつけたまま、首を捻ってきた。まわりの警察官がいっせいに立ち、こちらを向く。目の前にあっという間に二人が立ち塞がった。「止まれ」
 樋口晴子はその二人の間をすり抜け、構わず前進しようとしたが、気づいた時には路上に倒されていた。どちらかの警察官が手を動かしたのだろう。いとも簡単に倒された。膝を立て、手を突き、立つ。「ちょっと、彼が何をしたって言うわけ」と警察官に問い質す。声がかすれた。「わたし、知り合いなんですよ」
 いきなり、背後に大きな影を感じ、はっと振り返ると、体格のいい男が立ちはだかっていた。あ、と思った瞬間、自分の肩がつかまれ、痛いと思う間もなく、また歩道に身体を横たえていた。穿いているジーンズが削れるような音がした。スニーカーが脱げかかる。
 顔を上げる。ヘッドフォンをした大男の顔があった。角刈りで、目が細い。コーヒーショップで、平野晶と菊池将門と会った時、近藤守と一緒にいた男だった。色黒の肌で、額が広い。鼻梁の高さが作り物めいてもいた。彼が左手に構えているものが、銃であることに気づくまで時間がかかる。何らかの工事機具か玩具だと思った。海外の映画で、ギャングが撃ち合う場面で見たことはある。
この銃で殴られただけで重傷を負うような威圧感があった。武骨なバットに近い。
「この周辺をパトカーで巡回していたところ、停車するあのワゴンを発見した。ナンバーの問い合わせをした」制服警官が言いながら、樋口晴子が起きるのを手助けするように、右手を伸ばしてきた。
 樋口晴子はその手には頼らず、自ら立ち上がる。左肩に痛みがあり、顔を歪める。
「あの車が、セキュリティポッドの整備担当のワゴンであること、運転手が菊池将門という整備担当者であることはすぐに判明した。特に問題はないかと思ったんだが、近づいたところ、助手席にいた男が走って、逃げた。逃げられればこちらも、怪しむのが当然だ。そうだろう?」別の警察官が言う。
 誰も彼も似たような、無表情、無感情の幽霊にも似た顔をしている。助手席から逃げたのが誰なのか、樋口晴子は知っていたが、説明するつもりはなかった。それを言っては元も子もないから、菊池将門も抵抗したのかもしれない。
「樋口さん、すみません。そこで車止めて、あそこのテレビ観てるつもりだったんですけど、急に警察に来られて、びっくりして」シャッターの前に立つ菊池将門はすでに、こちらを向いていた。彼が視線で指したのは、樋口晴子がまさに自転車でやってきた方向の、かなり高い位置だった。ビルの外部に大きめの、正方形のビジョンが設置されていた。照明の当たった公園が映し出されている。中央公園の中継がそのまま、映っているのだ。
 樋口晴子は目を細め、見つめる。釣られたかのように、他の警察官たちも同じ方向を見上げた。 
 画面の中央、スポットライトを浴びた市民広場に、一人の男が現れるのが分かった。同時に、西の方角から、歓声のようなどよめきが、瞬間的な地鳴りさながらに,湧いた。「ついに来た」とスターの登場に興奮するのと同じだ。
 樋口晴子は緊張する。久々に見る青柳雅春は、輪郭もはっきりとし、アップになった顔つきは疲弊し、汚れているが、悲壮感はない。捨て鉢でもなく,何処か開き直った表情にも思えた。
 鼓動が強く、鳴る。
 犯人の癖にふてぶてしい顔をしていますね、などとテレビでは放送しているのだろうか。
「みなさんも早く、現場に行ったほうがいいんじゃないですか?」菊池将門がそこで声を発した。
「静かにしろ」警察官は言い、その直後、「おまえ、何してるんだ」と叫んだ。
 見れば、菊池将門はあっという間に地面に倒され、左腕を後ろに捻られ、取り押さえられていた。足元に携帯電話が落ちている。「どこに電話するつもりなんだ」と警察官が鋭く言う。
「どこって彼女に、ですよ」と菊池将門は嘘をつき、痛いですよ痛いですよ、と大袈裟に泣き声を出す。そこで大男の姿が動いた。まっすぐに菊池将門に歩み寄っていく。何をしようとしているのか分からないが、物騒な予感はあった。「ちょっと待って」と樋口晴子はその背中を追いかける。
 ちょっと、ともう一度、声をかけようとした。
 大男が足を止めた。そして、ためらいもなく拳を振った。厳密に言うと、振ったところは見えなかった。まず、目の前が白くなり、自分の姿勢が崩れ、一瞬宙に浮かんだと感じた直後には、歩道に顔をぶつけていた。何が起きたかすぐには分からない。持っていた、巨大なボールペンじみた銃で殴られたのだろうか。痛さよりも、こめかみのあたりが熱い。
 混乱に襲われる。自分の身体が、膜で覆われ、そのせいで周囲の状況が把握できない感覚だった。どうやって自分が立ったかも分からない。顔の右側に痛みがある。手で触れると、肌が少し切れ、ささくれ立っていた。
「樋口さん」と警察官に起き上がらされた菊池将門が言う。目を上へ、くいくいと動かす。それに従い、樋口晴子は後方にある、大型ビジョンに顔を戻した。

 青柳雅春が市民広場の真ん中にぽつんと立っている。
 彼は無防備で、世界中の射撃の的になったかのように見えた。今にもその身体に、麻酔銃が撃ち込まれるのではないか、と樋口晴子は背中の毛が逆立つ。
 青柳雅春がジーンズのポケットから白いハンカチを取り出し、頭上で大きく振りはじめた。降参するようにも、自分より高い場所にいる誰かに合図を送るようにも見える。
「ああ、」菊池将門がいても立ってもいられないような声を発した。腕を揺すり、左右の警察官の手を振り払う。そして、落ちている自分の携帯電話を拾うと、小走りでシャッターの場所から遠ざかり、耳に当てる。
 ヘッドフォンの大男が、自分の持っていたショットガンを地面に置き、横にいる警察官の腰に手を伸ばすのが見えた。
 いったい何を、と思った時には銃声が鳴る。
 樋口晴子の視線の先で、菊池将門がきょとんとしていた。
 大男の手には、警察官から引き抜いた拳銃があった。
 菊池将門が左の太股を抑えて、うずくまるのがゆっくりと見えた。
 のしのしと大男がさらに、菊池将門に歩み寄っていく。ショットガンを使わなかったのは、大男なりの慈悲なのか、それとも単に、そこまでする必要を感じなかっただけなのか。
 樋口晴子はまた、駆けた。先ほどよりも勢いをつけ、ぶつかるつもりだったが、それを察知したのか大男は素早く振り返り、こちらを向いた。撃たれる! 頭から水を浴びたような恐ろしさを感じるが、止まることもできない。



                                     つづく




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