ゴールデンスランバー・もうひとつの結末 -10ページ目
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ゴールデンスランバー・もうひとつの結末  完結

      『Golden Slumbers Another End 10』

 青柳平一

 齧った蜜柑から汁が飛び、炬燵の上を濡らした。手の側面で拭く。「おい、蜜柑、もっとないか?」と台所に向かって、声を上げる。すぐに返事がなく、不安が過ぎる。精神的な疲れが溜まったのか、青柳昭代は一ヶ月前に原因不明の腹痛で倒れていた。その時も、呼んだにもかかわらず返事がなく,おかしいと思ったらうずくまっていたのだった。
「おい」ともう一度声を出す。大丈夫か? と布団から身体を引き抜き、立ち上がったが、そこでちょうど玄関に通じるドアから、妻が姿を現わした。「ああ、いたのか」
「郵便取ってきただけですよ」
「びっくりさせんなよ」と青柳平一は苦笑し、台所に足を運ぶと蜜柑を両手につかんで、また炬燵へと戻る。
 正座する格好で、青柳昭代が郵便物を眺め、「これ、差出人が書いてないですけど」と白い封筒をひらひらと揺すった。
「また嫌がらせの手紙だろ。腹立つな。そんなに俺たちに首吊ってもらいてえのかよ。とっとと捨てちまえよ」青柳平一はいつもの様子で、ゴミ箱のほうに手のひらを向け、ひらひらと扇いだ。
「あら、でもこれエアメールっていうんですか。外国から来ているみたいなんですけど」
「珍しいな、ついに外国からも嫌がらせが来るようになったか」
 青柳昭代は、珍しさ以上に、何故かその白い封筒が気になり、鋏を入れて封筒を開け始める。
 蜜柑の尻の部分に親指をめり込ませて、皮を剥く。やっぱり冬は蜜柑だよな、と青柳平一は言おうとしたがそこで、妻が突然立てた笑い声に驚いた。「どうしたんだよ,おまえ」
「なかなか洒落が利いているお便りが」と彼女は広げていた紙を差し出してきた。
 満面の笑みを浮かべつつも、今すぐにでも泣き崩れそうな顔の妻にたじろぎつつ、青柳平一はそれを受け取った。
 どうも感触が妙だと思えば、エアメールにも関わらず、中身は薄い和紙で、広げてみると筆で書初めさながらに字が書かれている。大きく「痴漢は死ね」とあった。
 それをじっと見つめたまま、青柳平一はぽかんと口を開けていた。ああ、と呻いたものの、言葉が続かない。
 ちょうどそこで、玄関の呼び鈴が鳴った。泣きじゃくる妻のかわりに青柳平一が外に出ると、そこには、子供を連れたひとりの女性が、小包を片手に立っていた。その女性は、青柳平一と目が合うと一礼して、頭を下げた。


 樋口晴子

 樋口晴子は日曜の正午前、たまった洗濯物をベランダに干していた。七美は新しく買ったハンコのオモチャに夢中で、夫の樋口伸幸はまた出張中で、今回は海外に行っている。一枚一枚、湿ったシャツやタオルを洗濯バサミに挟んでいく。単調な作業をしている時が、一番何かを忘れさせてくれる気がする。
 でも、青柳雅春がいなくなってから三か月が過ぎた今も、心の中に開いた大きな空洞は、ずっと空きっぱなしで、どんな理由やどんな諦めも、その穴を埋める事は出来なかった。無罪で釈放された青柳雅春が何故、仙台港で死体になって発見されたのか。どうしても納得出来なかった。自殺とは絶対に思えないし、殺されたとしても殺される理由なんて、どうしてあるのだろうか。いや,ホントにその死体は青柳君なんだろうか。
「ピンポーン」
 玄関のチャイムが鳴る。樋口晴子は洗濯物を干す手を止めて、居間に戻りインターホンを取る。
「はい」
「宅急便です」
 インターホンのカメラの映像には、帽子をかぶった宅急便の制服を来た男の人が映っている。
 樋口晴子は、宅急便の人をカメラで見る度に、もしかして青柳君ではと、ありもしない期待をしてしまう。
 玄関を開けると、やはり青柳君ではない宅配便の人が、小包を手渡してきた。
「ありがとうございます」樋口晴子は、渡された紙にサインをする。
 渡された小包は海外からのもので宛名がなく、夫が気を使って何かを送ってきたのだろうと思った。
 七美が居間から玄関にやってきた。
「お母さん、何?」
「たぶん、お父さんが何か送ってきたよ」
「ホントー。私開けていい?」
「いいわよ」
 樋口晴子は七美に小包を渡して、ベランダに戻った。まだ干しかけの洗濯物は半分以上あった。
「お母さーん」玄関から七美の声がする。
「どうしたのー?」樋口晴子は洗濯物を干す手を止めることなく,大きな声で言い返した。
「中身、チョコレートなんだけどー割れてるのー」
 七美が、開けた小包の箱を持ってきた。
「運んでくる時に、落としちゃったんじゃないの?」
 樋口晴子は、中身のチョコレートを見ることなく、七美に言った。
「でも、何か変だから見てよ」
 樋口晴子は仕方なく洗濯物を干す手を止め、居間に戻り、七美の差し出す箱を見た。
 箱の中の一枚の割れた大きな板チョコレート見て、はぅ、と樋口晴子は呼吸が止まってしまう。
 板チョコレートは、豪快に大きく割れていたが、不思議な事に二つに割れたと思われる片方は入っていず、始めから割ったチョコレートの片方だけが、入ったものだった。
「青柳君」思わず声が出た。樋口晴子は、そのチョコレートの箱を胸に抱いたまま目を瞑ってしまった。
「ねぇ、お母さん。ねぇ、お母さん。何で泣いてるの?」
 七美の不思議そうな声が聞こえてくる。
 樋口晴子は、溢れる涙を何とかこらえようとして手で拭い、しばらくして七美に言った。
「今からね、このチョコレート持って出掛けるから、ついてきてね」


 青柳雅春

 青柳雅春と稲井を乗せた軍用機は、高度を徐々に下げ始め、気圧の変化に青柳雅春は目を覚ました。窓の外を見ると、水平線なのか地平線なのか、白い空間の先に見える一直線の境目から、輪郭がはっきり見えない眩しい黄金の太陽が昇り始めている。吸い込まれそうな太陽のひかりを見ていると、その下にゴロゴロとした巨大な氷の固まりが無数に反射して、輝いて浮かんでいるのが見えた。
「ここが北極ですか?」
「ああ、もうじき着陸する」
 稲井は一睡もしていない様子で、しっかりと答えた。
 一時期は、腹をくくったつもりの青柳雅春ではあったが、窓の外の景色を見て、全く想像もできない環境でこれから暮らす事に、不安が募り始める。
 これからの人生はこの大きな力に、委ねるしかないのだろうか。

「Once there was away To get back homeward
(かつて道があった。懐かしい故郷へと帰る道が)
Once there was away To get back home」
(かつて道があった。懐かしい家へと帰る道が)

 思わず青柳雅春は、口ずさみ始めていた。

「Sleep pretty darling do not cry,
(おやすみ、悲しまないで)
 And I will sing a lullaby」
(子守唄を歌ってあげよう)

 気が付くと隣りに座る稲井も、合わせて軽く口ずさんでいる。

「Golden Slumbers fill your eyes,
(黄金のまどろみが訪れる)
 Smiles awake you when you rise」
(目覚めたときにはきっと笑えるよ)


「ゴールデンスランバーか」歌い終わると稲井は言った。
「知ってました?」
「ああ、今の君にはピッタリの歌だな」
「いや、別にそういうつもりでもないですけど」
「まぁ、あれだけ騒がれたんだから、日本に戻って暮らすよりはマシなはずだ」
「・・・・」
 青柳雅春は、日本いる家族や友人ひとりひとりの顔を思い返していた。

「稲井さん、今は戻れないと思いますけど、俺はいずれ日本に帰ります」
「我々を相手に本気で言ってるのか?」
「はい。今回の事でよく分かったんです。自分を偽らないで信じて生きれば、何とかなるって」
「ふっ、面白いな。日本の警察よりは遥かに手強いぞ」
「そうですね。でも根拠のない自信が俺にはあるんです」
「自信だけで生きられるほど、甘くないぞ」
「でも戻ってみせますよ」

 稲井は、大きな夢を語る子供を見るように、青柳雅春を見て言った。

「そうか、もし君の意志で本当に日本に戻れたなら、
 

 それはロックだ」   
                       
             
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