暮らしと算命学*
「陽心論と陰心論」
一般的に「心」と言えば、精神的に考えがちになりますが、実際には世の現実をすべて消していけば、本当の精神などあり得ないかも知れません。
算命学の考え方は陰陽説の中で、一極二元論が示しているように、一つの物を分析すると、すべて宇宙全体の真理であると考えているのです。これは私たちが生存している地球上の真理でもあるわけです。
その前に先ず「人間の心」と言うのは、どんな仕組みになっているのかを考えると、「陽の心」と「陰の心」に二分されます。
陽の心=精神的
陰の心=現実的
陽の心とは精神的な心で、陰の心は現実的な心になりますが、ここで捉えている心とは、ごく自然の生活の中での「心」を対象としています。
日頃私たちは学問であるとか、神様を信じて信仰心を持つとか、友達や親しい人たちとの交流の中で、精神的な知恵が付いてくるのですが、そうした交流の中で自己の心が形成されているわけですが、中でも親の躾けなどは、最たるものと言わなければなりません。
一般的には現実生活の中で、あるいは肉体的な欠陥があるとか、父母の愛に恵まれなかったなど、現実の中で「何かの欠落」状態で育つ「心の形成」も無視することはできません。
こうした環境の中で自身の心は、精神的な陽心へと移行する人と、現実的な陰心へと移行するなど、どちらかに偏るのが「心」なのです。
しかし心の偏りとは、欠落している部分、すなわち人間の持っていない部分に「欲望」が発生してくるのです。つまり欠落している方向へと人間の心は傾斜していくのです。
会社の業績が悪くなって、社長さんが金策に走る姿は、まさに現実に心が偏った状態です。
しかし、何とか金策が整い徐々に業績が上がってくると、余裕から精神的なものを求めて行こうとするものです。
このように現実が全て完了すると、精神の方向へと傾いて行くわけで、心というものは決して一定な状態ではありません。
しかしよく考えてみると、この「心の揺れ」は、単に横に動いているだけでなく、螺旋階段のように次元が上がっていくのです。
最初は無一文の状態から、懸命に頑張って自分のものを作り上げていきますが、少し余裕がもてるようになると、贅沢をしてみたり、何か趣味などを求めていきます。
そうした趣味に講じても、さらに高度な趣味へと上がっていくと、今度はもっともっと稼いでさらに高度な趣味へと求めていきます。
このように精神と現実の間でぶれながら上昇していきますが、実はそこに精神と現実のバランスの問題があるわけです。
この欲張り方が人間の活力になるわけですが、中途半端で満足すると心の上昇もストップしてしまうのです。
したがって人間の「欲望と心」は、常にイクオールとも言えるのです。
算命学では「無」と言うものを考えるとき、最大限に「有」を通過してから「無」へと到達せよ、と言っているのです。
人は欲望を充たしていくと、さらに欲望がでてきます。それを次々に充たしていくと、結果的には無になってしまうのです。
五行説の各方向を最大限に生かせば、これは全てが相剋になり、最終的にゼロになるのです。
水性=学問・・・・・火性=意志
金性=名誉・・・・・木性=経済
算命学は道教的思想ですから、あらゆるものを広げていって、究極は「無に戻る」としているのです。
このバランス思想とは算命学の基本であり、これを上手に活かすことで、自由自在に運を掴むことができるとされています。
経済と地位・・・・・バランス・・・・・学問と概念
現実と精神のアンバランスは、不運を招くことになるのです。
昔の人たちが、学問はほどほどに、現実もほどほどに、と言うのは、ほどほどの運で安定するんですよと諭していたのです。
しかし算命学の理想としては、現実も高度に、精神も高度にと、高いところでバランスさせるという考え方です。
*運の高低は、低い方でバランスを保つ
「算命学心論」と言うのは、この現実と精神のバランスを言っているわけで、極端に言えば、一度掴んだ運を生涯かけて落とさないという方法なのです。
もっと具体的に言えば、ここに経済がすこぶる高く、仮に数字として100あったとします。しかし知性や夢は10くらいしかなく、学問的なものを好まなかったとします。
このままの状態で進行して、10年~15年後までは順当でも、20年目あたりにストンと現実(経済)の方が下がってしまうのです。
このように下がる現象とは、低いレベルの10の方でバランスが取れるようになるのです。
また別の事例では、親から財産を受け取ったり、政治家などに当選したとしましょう。
このように現実の方が一挙に100に上がったとしたら、精神の方も一日も早く100に近づけるように努力しないと、精神レベルが低いところでバランスが発生してしまいます。
昨今でも、政治家の問題発言で、責任問題で引責辞任して政治生命を絶たれるケースを耳にしますが、このようなケースが現実と精神のアンバランスから発生した典型的な事例です。
そういえば、宝くじで高額な当選金を手にしても、当選金に見合った精神を所有していれば、運を落とさないで当選金を元手にビジネスを立ち上げ、さらにお金を増やすことができるかも知れませんが、精神が低いとお金を使い果たし、悲劇へと進む場合もあるでしょう。
難しいかも知れませんが、現実も精神もバランス良く保たれていて、初めて平和を享受できるわけです。
①地位、経済なし/知性あり=家族に禍が出る
②経済、名誉あり/知性なし=自分に禍が出る
上記の①、②のように、現実と精神のどちらかに偏っていくことが禍のもとになるわけです。
ところが、アンバランスの状態のまま、アンバランスな生き方をすると、この場合は逆に運は落ちないのです。
上記の例の①、②では、自分の人生行程が、親に育てられ、家族を持ち、兄弟とも仲良く助け合いながら生きているという、ごく当たり前の生活をしている場合の状態です。
しかし、こうした当たり前の行程ではなく、生活自体がアンバランス(生涯独身)と言う場合、現実か精神のどちらかに偏った生き方をしても、何ら禍は発生しないのです。
ゆえにアンバランスを望む生き方をする場合に、大切なことは自身の「覚悟」の問題であり、徹底した生き方が重要になります。
それらを下していくのが「心」であり、心は意志の決定機関なのです。
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