書籍紹介:『カルト宗教事件の深層――「スピリチュアル・アビュース」の論理』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

藤田庄市『カルト宗教事件の深層――「スピリチュアル・アビュース」の論理』春秋社、2017年

 

カルト宗教が、それにハマってしまう個々人の精神にいかに作用するか、ということをオウム真理教をはじめさまざまな実例とともに論じ、その社会的問題点を指摘した本です。

筆者はフォトジャーナリストでもある宗教研究者で、この他にも多くの著作があります。

 

タイトルに見られる「アビュース」=abuseというのはなかなか見慣れない言葉ですが、「乱用」「酷使」さらには「虐待」といった意味のある英単語で、筆者は「スピリチュアル・アビュース」という複合語によって、カルト宗教団体が信者の精神を抑圧し、支配してしまう事態を指しています。

一時期、ほとんど流行語ともいえるレベルで「マインド・コントロール」という言葉が流通しましたが、対象としているのはそれとよく似た事態であると言えるでしょうか。

 

ただ、マインド・コントロールの方は今や比喩的にも使われるほど拡散し、多義的な意味を帯びているので、あえてスピリチュアル・アビュースという造語を採用したということです。

さらに筆者がスピリチュアルという言葉を使うことで強調したいのは、カルト宗教が信者のものの考え方を歪め、限定することによって、人間が本来持っているはずの精神の自由が侵害されているということです。

 

カルトによって精神を支配された信者は、あたかも自発的選択であるかのような見かけの下に、常軌を逸した献金や勧誘活動などに身を投じていくことがままあります。

それは実際には精神支配を受けているゆえの行為なのですが、信教の自由という建前もあり、その内面的な支配や収奪が見えにくくなります。

そのため、たとえば裁判の場でも法的に被害認定がなされにくく、カルト被害者の救済が進んでいないという実態があることを筆者は指摘します。

本質的に問われているのは、自由とは何かという問題でしょう。

少し引用します。

 

「「信教の自由」の名のもと、野放図な宗教活動が許されているという錯覚に、これまで社会全体が、それこそ呪縛されてきたのではないか。その揚げ句がオウム真理教事件であり、法の華三法行の事件であり、えんえんと続いている統一教会(当時)の霊感商法と「違法伝道」だ。

 スピリチュアル・アビュースは「信教の自由」と重なりながら、その基礎である布教伝道の方法とそれを受ける国民全体の問題であり、入信後には信仰育成と訓練を施される信者の問題でもある。そこでこれまで報告したような精神蹂躙、精神破壊が行われ、そこから生存の自由(財産、身体、精神)を脅かす事態が生じているのである。スピリチュアリティは心の内奥に位置するゆえ、そこを侵され、つくられた信仰は容易に崩れはしない。その信仰を宗教システムを用いて、恐怖感あるいはそれと不可分の使命感、救済感で衝く時、宗教システムは銃や刃物以上の凶器となる。また、周囲の援助により脱会できたとしても心の傷はとてつもなく大きい。活動からの脱落者であれば、問題の整理もつけられず、苦しみ続けることになる。「精神の自由」の侵害というのはそういう意味なのである。

 今、カルトを根底から見据えようとするなら、このスピリチュアル・アビュース、霊性虐待によって信仰をつくりあげ精神を呪縛することを問題にすべきだ。そのためには「信教の自由」について問い返し、「精神の自由」というものをあらためて考える必要がある。それは新しい人権の領域にかかわるものだろう。このことで、信教の自由、思想良心の自由はより広く、より深く拡大されるはずである」

(28頁)

 

もちろん、非常にデリケートな論点を含んでいるとは思うんですよね。

傍目からすれば明らかに不合理、不可解なことであっても、心底自発的に信教の自由に基づいて行なっているということもあるでしょう。

それを精神的虐待と切り分けるのは、並大抵のことではないと思います。

 

しかしカルトが今もって社会に猛威を振るっていることは、本書にも紹介される多くの事例が示すところでもあります。

本当の意味で自由な精神を守るにはどのような条件が満たされねばならないのか、ということを考えさせられる、非常に意欲的な問いかけに触れた読書でした。