書籍紹介:『千年王国の追求』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

ノーマン・コーン『千年王国の追求』(江河徹訳)紀伊國屋書店、1978年

 

 

 

 

キリストがこの世に再誕してから、最後の審判が行なわれるまでの一千年間にわたって、地上を統治するだろうという信仰が、千年王国と呼ばれるものの原初形態でした。

それはやがて、現世に楽園をもたらそうとする宗教的革命運動となっていき、必ずしも厳密なキリスト教と関係ないものまで、千年王国運動と比喩的に呼ばれたりするようになりますが、本書はそんな千年王国を希求する運動が、中世ヨーロッパでどのように出現し、展開したかを跡付けた研究です。

 

本書が取り扱っている範囲は、時間的には西ローマ帝国の末期から16世紀に及び、「中世」と呼ばれる時代の全域をカバーしています。

他方、空間的にはドイツ、フランス北東部、フランドル地方などヨーロッパの北部・中部が主に取り上げられていて、イタリアや南フランス、スペインなどはほぼ対象外となります。

しかし内容自体は、当時の史料を相当に博捜したことが窺えるもので、千年王国信仰がどのような淵源に由来し、どういった社会状況を背景として拡大し、どのように終焉を迎えていったかが網羅的に記述されていると言ってもいいんじゃないでしょうか。

 

それは現世の権力者たち、特に清廉を建前とする教会関係者が私利を貪っていることを告発し、地上に平等主義的な理想社会を築こうとする運動ですが、たとえば清朝末期の太平天国運動なんかとも近いところがあるように思えますし、日本の世直し運動にも類似点を見出せるような普遍的な側面があるような気がします。

社会関係が流動化し、不安定な状態にある時に、根無し草的な貧困層に訴えかけた運動という意味で、筆者が資本主義の発達による社会の解体を条件とする、近代的な革命運動との類似を指摘するのもむべなるかな、というところです。

さわりの部分を少し引用します。

 

「千年王国主義高揚の世界と社会不安の世界とは、当時、ぴったり重なり合っていたのではなく、部分的に重なっていたのである。或る階層の貧民たちがどこかの千年王国主義的預言者に心を奪われるといった現象はしばしば起こった。そこで、生活の物質的条件を改善したいという貧民通有の願望が、最後の黙示録的大虐殺を通して無垢へと再生した世界の幻想と混じり合っていった。悪人たち――これは様々なかたちでユダヤ人、聖職者、あるいは金持ちと同一視されたが――は皆殺しにされ、その後で聖徒たち――すなわち、当の貧民たち――が彼らの王国、苦しみも罪もない国土を築くことになるというものであった。このような幻想に駆りたてられて、あまたの貧民たちが果敢な行動に走ったが、それは地方的で限られた目的を持った農民や職人たちに通常見られる一揆とは全く異質のものであった。本書の結論は中世貧民層のこれらの千年王国運動の特質を明らかにしようとするものである。そしてまたそれは、或る点において、今世紀のいくつかの大きな革命運動の真の先駆であったことを示唆するものである」

(5-6頁)

 

驚嘆すべきは想像力の作用であって、千年王国の理想などと言うとあたかも非現実的な夢物語のように聞こえますが、それが社会不安の中に生きる人々の想像力に訴えかけた時、確立された権力をも揺るがしかねない現実的な力を発揮するということが、本書にはいかんなく示されています。

 

また、引用部にも少し触れられていますが、貧困階層のための解放的な力として働くものが、同時に方向付け次第ではユダヤ人虐殺などにも作用するという負の側面も、筆者は指摘することを忘れていません。

解放の力が抑圧にも転化するというのは、少なからぬ革命運動の不幸な現実でもありました。

そういった否定的な面も含め、現代の社会運動を考えるにあたっても裨益するところの多い一冊でした。