書籍紹介:『新左翼とロスジェネ』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

鈴木英生『新左翼とロスジェネ』集英社新書、2009年

 



毎日新聞の現役記者さん(当時)が書いた、新左翼運動についての概括的な通史です。

 

今では「サヨク」という言葉は、朝日新聞から共産党まで、俗に反体制的と見なされるグループや個人、運動体をあまりにも粗雑にひっくるめたワードとしてネット上などで流通し、ほとんど内実を失ってレッテル化した記号に成り下がっていますが、そもそも「新左翼」とは社会党や共産党といった既成左翼のさらに左に位置する勢力として定義される言葉なわけです。

それは全学連や全共闘といった形で、主に学生集団によって担われ、60年安保闘争と68年の大学闘争で頂点に達した一方、連合赤軍事件など凄惨な事件や続発する内ゲバを経て急速に勢いを失い、失墜していった運動であるというイメージは、多くの人に共通のものかと思われます。

 

そのような新左翼運動にアプローチするに際して、筆者が選ぶ切り口は「自分探し」というもので、自分が生きている意味とは何なのか、と模索する少なくない若者によって担われたのが戦後の政治運動であり、タイトルにも含まれる「ロスジェネ」という言葉が示唆するように、それは現代の日本の若者にも一脈通ずるものがあるのではないか、というのが本書のテーマです。

 

筆者の試みが成功しているかどうかは、正直微妙なところという印象は拭えませんが、とはいえ本書には敢えての図式的な単純化を恐れない割り切りのようなものも感じられ、また補助線として、新左翼運動の時代を描いた文学作品の紹介なども織り交ぜられて、一種の見取り図としてはわかりやすいものになっていると思います。

また、自分探しという文脈で言うと、新左翼が退潮気味になった頃から大学で活発化してきたのが、カルト的な新興宗教であるという指摘は、掘り下げるべきものがあるのではないかと感じられました。

少し引用します。

 

「80年代以降、同時代の新左翼運動を扱った小説はあまり見あたらず、『I LOVE 過激派』(早見慶子)など、手記の類があるくらい。活動家が少数なのだから、当然といえば当然だ。同じころ、渡辺美里は「私の革命」を歌い、尾崎豊が「本当の自分」を探していた。「自分探し」が、まさにそれとして語られ始めた時代。バブル景気の入り口で、すでに、新左翼の「革命」は、世間では遠い昔の出来事になっていた。

 80年代の大学生は、内ゲバのニュースを見て育ち、多くの場合、「運動は怖い」という意識を持って大学に入った。大学では新左翼に代わって(?)、新興宗教が目立つようになる。特に統一教会、原理研究会の活動をめぐって、「反原理」が一部で学生運動の大きな課題となった。たとえば、82年の早稲田大では、全国大学原理研の集会に3000人の学生が抗議したという。ただし、その運動が盛り上がったこと自体、以前は新左翼が果たした役割の一部、「自分探し」の引き受け先を、新興宗教が一定の規模で肩代わりしていたことの傍証になるかもしれない。そういえば、セクトはもともと、宗派という意味だった」

(164-165頁)

 

筆者は視線を現代社会に差し向ける中で、貧困によって孤立化、分断させられた若者たちの連帯をどのように再構築するか、という問いを発し、新左翼にしろ新興宗教にせよ、そういった運動が若者を引き付けていた理由は、彼らに何らかの形で居場所と共同性を提供することができていたからだ、と分析します。

それは必ずしも斬新な議論ではないでしょうが、昨今の貧困問題に対処する示唆を新左翼運動に求めるというのは、結構真面目に考えられていいものかもしれない、と思わされました。

 

巻末には主な新旧左翼諸党派がどのような分裂、合同の流れを辿ったかを簡潔に描いた系統図も載せられていて、本書の内容とは別に、ややこしい新左翼史を辿る上でこれも有用だな、などと思ったのでしたが、ともあれ新左翼について大雑把に押さえるには手頃な一冊ではないかと感じました。