書籍紹介:『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

鈴木順子『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』藤原書店、2012年

 



フランスの特異な思想家シモーヌ・ヴェイユについての本です。

ヴェイユは1909年に生まれ、第二次世界大戦中の1943年に34歳という若さで亡くなっていますが、その人生は実に多面的です。

 

若い頃は革命的サンディカリストとして労働運動などに関わり、後半生は、ユダヤ系であったがゆえにドイツに占領されたフランスを逃れて亡命生活を余儀なくされつつ、ド・ゴールの自由フランス政府にも関わりながら哲学的思想を進めるという、活動家とも思想家とも呼べるような、枠組みを跨いだ著述家でした。

そしてもちろん、『神を待ちのぞむ』や『重力と恩寵』といった著作で、キリスト教に近い神秘思想家という側面が強調されることが多いのも、よく知られているところです。

 

本書はそんなヴェイユの活動の諸側面を有機的に関連付け、ひとつの全体像を取り出し、また、そうして把握されるヴェイユの思想にどのような現代的意義が見出されるかを論じた意欲的な研究です。

ヴェイユの全体像を問う際に鍵となるのが、鍵括弧付きでタイトルにも付されている「犠牲」という概念です。

それはすなわち、他者のために自らを犠牲に供する義務、という考え方に行き着くものなのですが、そこで念頭に置かれているのは弱き他者の普遍的欲求に応えるということ、たとえば目の前で飢えている人間のために食べるものを差し出さなければならない、という次元から発想されているものであり、国家のために一身を捧げるといったタイプの戦場のヒロイズムのごときものは厳しく退けられている、という点は強調されるべきでしょう。

 

そのあたりを完全に切り分けるのは難しく、またヴェイユ自身も独自の意味で「祖国」といった語彙をよく使うので、理解するには注意深さが必要なのだと思われますが、本書はヴェイユの議論を実に丁寧に追っていきます。

たとえばヴェイユは通常の意味での「人格の尊厳」といった概念を批判するのですが、それがいかなる意味で批判を受けるのか解説されるところもわかりやすく、ヴェイユの考え方を浮き彫りにしてくれます。

少し引用します。

 

「ヴェイユは、社会の底辺にいる犠牲となる人々の救済のためには、人格概念そのものに対する根本的な批判が必要だと強く感じ、以下のように考え始める。近代以降われわれは、人格とは一人一人違うものであり、その差異ゆえに尊いと考えてきた。「人格の開花」という表現にも、そうした異なる個性が社会において発現することこそが望ましいととらえる視点がある。しかしその時の個性の差異は、常に周囲にいかによい影響を及ぼし、社会にいかにその人が貢献するかという部分において現れ出る差異である。したがって人格の尊重とは、厳密にはそして明らかに現実には、社会においてその人が他者から優越する部分を尊敬することである、と。そしてヴェイユは、個々の人格を称揚する態度の中に、人間を社会における有用性で捉える視点が包含されていることを見抜く。ヴェイユにとって人格とは、社会における有用性から見た人間の個別性であり、それに対してことさらに注目することは不平等を温存し、犠牲を黙認することだ、彼女は考えたのだった」

(240頁)

 

そして個々人で差異を生ずる人格を拠り所にするのではなく、万人に普遍的と想定される非人格的な部分の尊重によって社会的正義や善は構想されねばならない、ということになるわけです。

こういった発想は、いわゆる近代的個人や近代社会の基本的な構造と相容れないものですが、そこでは真の意味で弱者に寄り添うとはどういうことなのかが問われているのだ、ということが見て取れます。

 

ファシズム、ナチズム、第二次世界大戦と近代的理念が根本的に揺るがされる歴史的状況の中に身を置いていたからこそ、ヴェイユの思想は際立って先鋭的なものになりえたのかもしれません。

といってヴェイユの考えが歴史とともに失効していったというわけではなく、たしかに現代でもなお汲むべきところの多い思想家だと、その応用可能性を考えさせられる読書でした。