書籍紹介:『骨相学――能力人間学のアルケオロジー』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

平野亮『骨相学――能力人間学のアルケオロジー』世織書房、2015年

 



骨相学というと、18世紀前半のイギリスを中心としたヨーロッパで一大ブームを巻き起こした学問潮流、というか現代ではエセ科学と見なされているもので、人の能力や性質は脳の形に表現され、脳の形は頭蓋骨に表れるので、頭蓋骨を見ればその人がどういう人間かわかる、といった発想に集約して語られることの多い「学」です。

 

しかし本書は、そんな骨相学を単なるトンデモ科学として扱っているのではありません。

むしろ骨相学という「学問」が西洋の伝統的人間観に対してどのような位置に立ち、科学として提示されたその言説が、実際に科学的合理主義の発展期であった18世紀末から19世紀のヨーロッパにおいて、どのような意義を担っていたのかを、教育思想という観点も絡めながら読み解こうとした労作です。

 

たしかに、骨相学というのが結果としてトンデモであったとしても、それがブームとなるには一定の背景ないし前史があるでしょうし、社会的な関心に応えたものでなければそうそう流行現象など引き起こせるものではありません。

さらに、脳の一定の部分が人間の何らかの能力に対応している、とする考え方は、現在の脳機能局在論の先駆ともされる、というところなどは面白いなと思いました。

 

骨相学というと、頭蓋骨の大きさを測定して優等人種と劣等人種を分類し、植民地支配を正当化する手段として活用された、後年の帝国主義的人類学と一緒くたにされて批判されるような印象もあるのですが、骨相学は人種を総体で語るようなことをせず、逆に各人の個別性に着目するものである、というのも本書を読んで知りました。

少し引用します。

 

「骨相学の個人差の理論を知るために、器官の測定について述べたG・コームの説明を見てみよう。「他の条件が同じなら、サイズがその器官の機能の強さの尺度になる」という骨相学的事実を押さえつつ、次のようにコームは解説する。器官の大きさを測ると言っても、「「実寸の測定値」(absolute size)での比較や、標準頭部(standard head)との参照比較ではなく、一人一人に観察される器官同士の比率」を考えねばならない。どういうことかと言うと、仮に或る人の〈破壊性(destructiveness)〉の器官の大きさが、別の誰かのそれより小さかったとしても、その人自身の脳を構成する他の器官に比べて大きいのであれば、その人は破壊的な性向を示すことになる。他者間の実寸比較は、それだけでは確たる何らの情報も与えない、ということである。

 骨相学の理論によると、能力は組み合わせによって発現の仕方が変わる。例えば、「勇気」を司る〈闘争性〉の器官と〈破壊性〉の器官がどちらも発達している場合は、その人物は「好戦的」で「攻撃的」な性向となるといった具合だが、ここにも骨相学が個別的な論理であることの裏付けが隠れている。トムリンソンもふれているように、様々な大きさの(=発達、或いは生得的に程度の異なった)器官が、「無数の組み合わせ」(infinite combination)によって種々異なった発現をするのであれば、それはまさに“個人の多様性”の根拠となる。否応もなく、各人一人一人の器官同士を観察する以外に方途はないという次第である」

(160頁)

 

ですので、骨相学をベースにした教育論では、各自の性向や発達に応じて編成される少人数学級が推奨される、ということもあったそうです。

 

繰り返しになりますが、本書が問おうとするのは骨相学のトンデモ科学としての笑えてしまうような側面ではなく、脳の部位に定位して理解される「能力」概念とは何なのか、その背後にはそもそもどのような人間観があるのか、といったことです。

それは必然的に、19世紀の欧米から刺激を得て近代化を果たしてきた日本社会にも向けられる問いであるはずで、現代の我々が「能力」というものをどのように捉えているかも射程に入ります。

 

自分の日常にまったく関係なさそうなところから、テーマがググっと身近に迫ってくるという、タイトルだけからは想像のつきにくい読書体験のできる本でした。