書籍紹介:『ソクラテスの弁明・クリトン』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』久保勉訳、岩波文庫、1964年

 



プラトンの対話篇というと、西洋哲学の原点といっても過言ではないものです。

「ソクラテスの弁明」を中心とする本書は、その名の通り裁判の場でのソクラテスの弁論を描いたものであり、プラトン対話篇の中でも代表的なひとつとされているのは周知のところでしょう。

 

そもそもなぜソクラテスが裁判にかけられることになったかというと、当時のアテナイの政治的・社会的情勢もいろいろ絡んでくるそうなのですが、基本的には旧来の神を蔑ろにし、前途ある青年たちを惑わした、という罪状によるみたいです。

現在の我々からすれば、とても死罪に値するような話とは思えませんが、ともあれそのような告発に対してソクラテスは、自分は誠実かつ率直に知を追い求めていただけだ、ということを論証しようとするわけです。

 

語られているのはソクラテスのことですが、実際に書いているのはプラトンであり、どこまでがソクラテスの考えでどこからがプラトンの思想なのか、ということは古来大問題になってきたとは思うのですが、ともあれこの対話篇はプラトン初期の作品であるらしく、それだけに師ソクラテスの面影を忠実に伝えているとされ、わたしのような素人としましては、難しいことは考えずに書かれている議論を追えばいいか、と思ったりします。

また思想書というより、一個の弁論として見ても、非常に格調高く美しいものであることはよくわかります。

ソクラテスの有名な「無知の知」というのが説かれるのも本書においてですね。

少し引用します。

 

「アテナイ人諸君、私が吟味している際に次の如き経験をしたのは、政治家の一人であった――彼と対談中に私は、なるほどこの人は多くの人々には賢者と見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、しかしその実彼はそうではないという印象を受けた。それから私は、彼は自ら賢者だと信じているけれどもその実そうではないということを、彼に説明しようと努めた。その結果私は彼ならびに同席者の多数から憎悪を受けることとなったのである。しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた.とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りはしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。それから私は、前者以上に賢明の称あるもう一人の人をたずねたが、まったく同様の結論を得た。かくて私はこの人からも他の多くの人達からも憎悪せらるるに至ったのである」

(21頁)

 

リアルに考えますと、地元の有名政治家の事務所を訪ねては、「お前何も知らんやん」と言って回るとか、そりゃ煙たがられるに決まってるわけですが、「わたしは何を知っているのか」という問いはこうして西洋哲学の根底に横たわるようになったわけですね。

 

一緒に収録されている「クリトン」は、ソクラテスの老友であるクリトンが、処刑直前のソクラテスを訪問し、脱走を促すも逆に説得されてしまう、というお話で、これも哲学者の横顔をよく伝えるものみたいです。

両作とも言葉遣いは平易で、哲学とは言っても難解な議論よりはむしろ、「よき生」とは何かを追求することが最大のテーマという感じがし、自分の生き方を省みる上でも裨益されるところ大でした。