書籍紹介:『ミミズと土』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』渡辺弘之訳、平凡社ライブラリー、1994年

 


著者のダーウィンはもちろん、『種の起源』と進化論で有名なあのダーウィンです。

 

生物の系統的進化、という非常に巨視的な発想の議論で名高い生物学者が、同時にミミズというきわめてミクロなテーマを扱っていたというのも驚きですね。

原書は直訳すると『ミミズの作用による肥沃土の形成およびミミズの習性の観察』だそうで、ダーウィンの死の一年前に発表されています。

 

本書のいたるところに、数十年単位で観察される土壌の変化についての考察がちりばめられていまして、ミミズの研究がダーウィンにとって、余技というよりはむしろライフワークのような位置付けであったことが見て取られます。

ミミズの知覚や行動の習性、食べ物といった生態についての報告から、大規模な土壌の浸食、地形の変化にどれほどミミズが寄与しているかという分析まで、ダーウィンが細かい観察と記録を繰り返し、徹底して科学的な視点から叙述が進められるのが印象的です。

 

一見したところ大したことのないミミズという小さな生き物の活動も、地質学的な年代に渡って累積すれば大きな変化を生む、という結論が導かれるのですが、注意すべきは解説を書いたグールドさんも指摘しているように、小さな作用の累積による巨大な変化、というメカニズムは進化論の議論とパラレルなものであり、歴史に対して科学的なアプローチをするための推論の原理が問題となっているのだ、という点でしょう。

ミミズは単なる科学者の気まぐれによって愛好されているわけではなく、ダーウィンのものの考え方が反映される、周到に選択された研究対象だったというわけです。

 

それにしても、ミミズとは馴染み深いようでいて、本書を読むと、まったく知らないことばかりの生き物だったということに気付かされます。

ミミズがいる土はよい土だ、といったことはよく言われますが、ミミズが生息している地の土壌はすべて、一旦はミミズの体内を経て形成されているし、現在も落ち着いているわけではなく、絶えずミミズによって攪拌される動的な状態にある、と聞くと畏怖の念すら湧いてきます。

ダーウィンはミミズの「知能」にすら言及します。

少し引用します。

 

「ミミズが突然光に照らされたとき——友人の表現を使えば——脱兎のごとくトンネルにとびこむのを、はじめ私たちは反射行動だと見なしていた。大脳神経節を刺戟すると、ミミズはまるで、自動機械ででもあるかのように、意志や意識には無関係に、否応のない形で特定の筋肉の収縮を引き起こすと思われる。しかし、ミミズがその時その時によって、光にちがった反応をするということ、とりわけ、ミミズが何か仕事をしたがっているとき、あるいは、仕事の中休みの間は、その仕事にどのような筋肉と神経節が関与していたかにかかわりなく、光に対して、しばしば無関心であるという事実は、ミミズが突然にトンネルに身を引っ込める動作が単なる反射運動だという見方に対立するものである。高等動物では、何かに注意が向いていると、他のものが生みだすはずの印象が無視されることになるが、そういうとき、私たちはこれを注意力が吸収されたためだと見なす。そして、注意力は心(精神)の存在を前提として含んでいる。ハンターなら誰でも、獲物が草をはんだり、けんかしたり、あるいは求愛している間なら、他の時よりも、よりたやすく近づけることを知っている。高等動物の神経系の状態も時により大きく異なる。たとえば、ウマは時により、たいへん興奮しやすくなる。ここであげたような、高等動物の一員たるウマの反応とミミズのごとき下等動物の反応の比較はこじつけだと思われるかもしれない。そうすれば、ミミズが注意力とある程度の知的能力を持つということになるからである。にもかかわらず、私はこの比較の正しさを疑うべき理由をまったく見いだせないのである」

(28-29頁)

 

ミミズの「知能」についての議論は、第二章でもさらに別角度から展開されますので、ご興味の向きは是非本書をご覧ください。

ミミズに関する研究論文ですと、いまだに「ダーウィンによると」と引用されるくらい、本書は古典であると同時に現役なんだそうです。

 

ミミズの研究が地質学的なレベルの話にもつながるというのには、科学のロマンみたいなものを感じたりもします。

子どもの夏休みの自由研究には、ミミズの観察を勧めるのもいいな、なんてことを思ったりした読書でした。