本日は書籍紹介をいたします。
今回取り上げるのはこちら、
阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』ちくま文庫、1988年
ハーメルンの笛吹き男といえば、日本でも知らない人はほとんどいないんじゃないか、というくらいの有名な伝承です。
鼠の害に困っていたハーメルンの町に、ある日不思議な男が現れ、笛を吹くことで鼠を川まで連れていって溺れさせ、町を救った。
しかし町の人たちが報酬の支払いを拒否したので、今度は町の子供たちを笛で連れていき、そのままどこかに消えてしまった、というものですね。
本書はヨーロッパ中世史研究の第一人者であった阿部謹也氏が、その伝説の発祥から歴史的変貌までを克明に追った研究です。
こう言うとまるで謎解きもののように聞こえるかもしれませんが、筆者の本領は、単に伝承の流れを跡付けることにあるのではなく、その背景をなした中世という時代を丸ごと、それもこれまでは見過ごされがちであった下層民の生活に即して描いて見せたというところにあるでしょう。
ハーメルンという町の中世的位置付けから始まり、下層民の生活や遍歴の芸能者たちの社会的立場が問い直される中、宗教的な鋭い対立も孕んだ中世都市において庶民が抱えていた不安感こそ、伝承を生み伝え、変貌させていく基盤となっていたことが丁寧に論じられます。
中世社会の入り組んだ総体を眺めようという意志があるからこそ、本書には謎解きの次元を超えた研究としての迫力が感じられます。
本書はそのような研究に付きまとう困難も自覚し、クリアに指摘していますが、そのような箇所を読むと、歴史書をただ楽しんで読むだけのわたしのような読者でもハッとさせられる部分があります。
少し引用します。
「伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発する。その点でメルヘンとは質を異にしており、「伝説は本来農民の歴史叙述である」(ゲオルク・グラーバー)といわれるゆえんである。そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠の中にしっかりととらえられ、位置づけられてゆく。この過程で初発の伝説はひとつの型のなかに鋳込まれてゆく。その過程こそが問題なのであって、こうして変貌に変貌を重ねてゆく伝説の、その時その時の型をそれぞれの時代における庶民の思考世界の次元をくぐり抜けて辿ってゆき、最初の事実に遭遇したとき、その伝説は解明されたことになるかもしれない。
しかしそれはなかなか難しい。解明しえたと思ったとき、気がついてみればわれわれがわれわれの時代環境のなかで、伝説の新しい型を「学問」という形で形成していることになるのかもしれないからである。伝説も庶民が世界と関係するその絆であるし、学問もわれわれが世界とかかわる関係の表現であって、そこには本質的な違いはないからである」
(117頁)
社会史研究の傑作と評される本書ですが、歴史学とはそもそも何か、という視野が常に研究の背後にあることが察せられ、学問が取るべき姿勢についての参考書として読まれてもいいんじゃないかと思ったりします。
本論とは関係ない部分ではありますが、解説を書いているのがなんと石牟礼道子さんで、石牟礼読者としては、一粒で二度おいしい、みたいな感じでもありました。