人生はクイズの連続だ 小川哲『君のクイズ』 | 茶々吉24時 ー着物と歌劇とわんにゃんとー

 

  みのおエフエム 「図書館だより」

私がパーソナリティを担当している

大阪府箕面市のコミュニティFM みのおエフエムの「デイライトタッキー」。

その中の”図書館だより”は箕面市立図書館の司書さんが選んだ本をご紹介するコーナー。

私は司書さんのコメントの代読をし、そのあと自分の感想も付け加えます。

 

本日(2024月2月7日)放送の番組では、小川哲さんの『君のクイズ』をご紹介しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

  小川哲さん『君のクイズ』

 

クイズはお好きですか?

私はマニアとまでは言えませんが、好き。

月曜日に『Qさま!!』の放送がある時とない時では週明けのテンションが変わります。

 

子どもだった昭和時代を振り返ると、一番最初に認識し、自分も回答し始めたクイズ番組は「アップダウンクイズ」だったと思います。その後、「クイズダービー」、「アタック25」など、各局工夫を凝らしたクイズ番組を放送していましたが、どの番組もスタジオで録画したものでした。

しかし1977年に始まった「アメリカ横断ウルトラクイズ」は、スタジオどころか日本を飛び出し、アメリカを(のちにアメリカ以外も)旅しながらクイズを続行するという、破天荒なクイズ番組で、衝撃的でした。

キャッチコピーは「知力、体力、時の運」で、記憶力やクイズの知識だけでは勝ち抜けない出題になっていたこと、途中で篩い落とされた人たちに与えられる罰ゲームの面白さ、優勝賞品の意外性など、胸をワクワクさせて見たものです。

 

高校三年生の時に同じクラスになったIちゃん。

秋になって文化祭の準備のため、放課後一緒に作業するようになって、お互いに「ウルトラクイズ」のファンだったことが判明し、大いに盛り上がりました。

「いつか出てみたいよね!」と。

そして高校卒業時に、約束したのです。

「次は後楽園で会おう!」

 

「アメリカ横断ウルトラクイズ」は応募者が万単位もいて、第一次予選は後楽園球場で行われていました。

球場の芝生、一塁側と三塁側に大きな「⭕️」と「❌」印がありまして、丸バツ二択のクイズが出題されるたびに、参加者が正解と思う方に走っていく予選スタイルが愉快でした。

「後楽園で会おう」というのは予選会で会おうということだったのです。

 

ところが私は「ウルトラクイズ」の予選には行きませんでした。

のちの特別編を除けば、1992年まで毎年開催されていたのに。

今と違って予選会がいつあるのかといった情報を簡単に入手できなかったことと、一人でクイズのために東京まで行く決意がつかなかったことが理由です。新幹線や飛行機の予約システムも今みたいにスマホでできる時代ではなかったこともありましたし。

 

大学生になって「ウルトラクイズ」を見ていた私の心は「Iちゃんは後楽園へ行ったのかなあ、会場で私のこと探していたのかな」と、後ろめたい思いがいっぱい。そして心に誓いました。

「そうだ、代わりに『アタック25』に挑戦しよう!」と。

なんの「代わりに」なんでしょうか。

 

朝日放送の「パネルクイズ アタック25」の予選会にはハガキで応募したと記憶しています。

当時の司会者は児玉清さん。私は児玉清さんが好きで、スタジオで児玉さんとお会いできたらどういうことをお話ししようか、などと妄想に耽りました。また、優勝賞品はペアのパリ旅行だったので、それは母と行くことにし、当時飼っていた犬のロンをどこに預けようか、などと取らぬ狸の皮算用を繰り広げたのでした。まだ応募ハガキを出しただけなのに、この浮かれよう。我ながらめでたい。

 

そんな妄想も薄れかけたある日、予選会のご案内ハガキが届きました。

おおおお!!アタック25の予選会だ!

やっぱりパリ旅行の際の、犬の預け先を見つけないといけない。

再び妄想に耽りながら、向かったのは大阪朝日放送の会議室。

受付を終えた参加者は会議室に案内され、普通の長机に、二人ずつ座ったような……。

答案用紙が配られましたが、大学入試のような問題用紙はありません。

あれ?どうやって出題するんだろう、と思ったら、一番前に私たちと向き合う形に置かれたテーブルの上に、ラジカセがことんと置かれました。ラジカセ、平成、令和の人たちにわかるでしょうか。ここで説明すると、長い前置きがより長くなるので、割愛。各自でググってくださいまし。

 

係の人が「では予選会を開始します」というや、カセットの▶️ボタンをグッと押しこみました。

すると聞き慣れた音楽が…

「アタック!にじゅうごぉ〜にじゅうごぉ〜🎵」

番組のテーマ曲がひとしきり流れ、みんなちょっと笑いました。

でもそのあとすぐに「問題です」というナレーションが入り、みんな鉛筆を握りしめ、耳をそばだて、予選クイズに挑んだのでした。

 

私も頑張ったけど、すぐに気がつきました。

全く勉強が足りん!と。

答えられない問題が多くて、びっくり。舐めてましたわ。

もう児玉清さんにも会えないし、飼い犬の預け先を探す必要もないと、悟りました。

 

ただ、嬉しかったのは、参加者全員に「アタック25」特製のバインダーが配られたこと。

結構ちゃんとしたもので、テレビ番組には予算が今より潤沢にあったのかもしれませんね。

 

ふう、長すぎる前置きへのお付き合い、ありがとうございました。

私とクイズとのへっぽこな関わりをわかっていただいたところで、小川悟さんの『君のクイズ』をご紹介しましょう。

 

中学生時代にクイズの魅力に目覚めた僕は、その後クイズ研究会に所属、仲間と切磋琢磨していた。とはいえ、クイズで生計を立てられるわけはなく、大学卒業後は就職した。しかしクイズをやめたわけではない。仕事をやりくりして、今もクイズ大会やクイズ番組に出場、出演している。

そしてクイズ王を決める第一回『Q-1グランプリ』のファイナリストとして、生放送のスタジオに立つに至った。

Q-1グランプリは対戦方式の勝ち抜け戦で、7問正解で勝ち、3問誤答で失格のルール。

今、僕は6問正解の状態で決勝戦の第15問目に挑むところだ。対戦相手の本庄絆も6問正解しているが、彼はすでに2問誤答しており、もし次の問題が誤答だと失格する。僕にとってはとても有利な状態だ。

もうすぐ初代クイズ王「Q-1グランプリ」勝者の名声と、賞金一千万円が手に入る、そう確信した。

 

いよいよアナウンサーが15問目の問題を読み上げようとしたその時、本庄絆が早押しボタンを押した。僕は本庄絆が焦ってミスをしたと思った。だってまだ一文字も問題が読まれていないのだから。かわいそうではあるけれど、これは生放送、ミスを無かったことにはできない。3問誤答で本庄絆の自滅だ。

こんな終わり方を望んでいたわけではないと思った僕の耳に、本庄絆が回答する声が聞こえた。そしてその後、正解を表すピンポーンという効果音が鳴り、頭上からは紙吹雪が舞い降りてきた。

本庄絆は正解したのだ。問題文の一文字すら読み上げられなかったにも関わらず。わけがわからない。

これはヤラセではないのか?それとも正解することは理論的に可能だったのか?

それ以来僕はずっと、これがヤラセでないとしたら、どうやって本庄絆が正解したのかを考察することとなった……。

(小川哲さんの『君のクイズ』の出だしを私なりに紹介しました)

 

小説は「Q-1グランプリ」の決勝場面から始まります。Q-1グランプリは、漫才およびピン芸人の頂点を決める「M-1グランプリ」、「R-1グランプリ」のクイズ版といえばわかりやすいかもしれません。それを生放送で開催するのですから、番組製作陣の意気込みもわかるというもの。それなのに、問題文を一言も発していない状況で正解できるなんて、どういうことなのか、読者も戸惑わずにはいられません。

 

ですが、一番被害を被ったはずの「僕」が、一言も問題文を聞かずに正解する方法があるかを真剣に考察するではありませんか。そんな方法があるわけないと思いませんか?アナウンサーが一言も発していないということは、世界中のありとあらゆる問題から出題される可能性があるわけで、答えは無限大にあるじゃないですか。

 

ところが読み進めていくうちに、そんなことを思う私はクイズに関して全くの素人だなと思い知らされることになりました。

 

この小説では、クイズを研究している人、クイズに生きている人たちの日頃の努力や勉強、クイズ本番での技が描かれています。

 

早押しボタンを押した瞬間にアナウンサーは問題を読むのをやめるわけですが、クイズ巧者は、次の言葉を発音するために開いていた口の形や、言葉になりかけていたかすかな息の音から、次に何を言おうとしていたかを類推して答えたりしているそうですよ。

 

また、日頃目にしているあらゆる情報もしっかり頭に入れていると、問題文の途中で脳が「その答えを知っている」「答えが出てきそう」と指令を出し、早押しボタンをプッシュ。制限時間内で頭をフル回転させて正解を口にする、なんていうことも書かれていました。

とにかく、クイズに生きる人たちは、日常生活のあらゆることをクイズに結びつけています。

 

クイズで勝ち残るのに大切なことは、知識だけではないことも書かれていました。

精神面も大切。「恥ずかしい」という気持ちを捨てることがクイズに強くなるコツなのですって。

間違えたら恥ずかしい、と思っていたら、問題文を最後の方まで聞いてからボタンを押すことになります。答えが明確にわからない問題の場合ボタンを押せない。

難しい問題ならライバルもじっくり考えますが、誰でもわかる問題の場合は誰よりも早く回答することも勝つためには必要。そのために「恥ずかしい」気持ちを捨てないといけない、というわけです。

 

そして「僕」はこんなふうに感じています。

 

 僕たちはいつもクイズを出題され続けている。競技クイズをしている必要はない。クイズはどこにでも存在している。

 傷つき、悩みを抱えた友人に、どんな言葉をかければいいだろうか? 上司から与えられた理不尽な要求に、どう応じればいいだろうか?我慢して今の仕事を続けるべきか、それとも思い切って転職するべきか?

(中略)

 どんな答えを出すかは人それぞれだが、なんにせよ僕たちはボタンを押す。過去の経験を思い出したり、誰かの知恵を借りたりしながら答えを出す。

 競技クイズと異なるのは、この世界で僕たちが出題されるクイズのほとんどには答えが用意されていない点にある。

(小川哲さん『君のクイズ』 P144〜P145より引用)

 

以前『人生は、オーディションの連続だ。』というタイトルの本を読んだことがありますが、この主人公に言わせたら『人生はクイズの連続だ』ということですね。そのどちらも正しいような気がします。

 

次々出題されるクイズに正解しても、不正解でも、休む暇なく次のクイズに挑まなくてはいけないのが人生。それはとても納得できる考え方です。

 

さて、小説冒頭に出てきた「問題が一文字も読み上げられないのに正解した」のがヤラセだったのかどうかについては実際に小説を読んでみてくださいね。

 

結末は非常に今ふうだと思いました。

これが昭和だったら、こういうことになっていない気がします。

 

 

 

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