母を見送りました | 茶々吉24時 ー着物と歌劇とわんにゃんとー

本日、母の告別式、お骨あげの後、初七日を終えることができました。

 

私には産みの母と育ての母がおりまして、今日見送ったのは産みの母です。

 

事情を全て説明すると長くなるのでざっくりと説明しますと、

私は物心着く頃には母の兄、つまり私にとっては叔父に引き取られました。

(今年2月に見送った父のことです)

 

ですから、母と一緒に暮らしたことはほぼないし、

育ててもらうこともありませんでしたが、縁が切れたわけではなく、行き来はありました。

特に母が高齢になってからは、週に一度は買い出しなどで自宅を訪ねていました。

 

母が入院したのは今年の5月24日(月)。

誤嚥性肺炎でした。

母のかかりつけ医が主治医になってくださいました。

この時の母の血液中の酸素飽和濃度は70%代。

気絶していてもおかしくないほどの低濃度でしたが、母は意識がありました。

ただ、脳に酸素が周りきっていないせいか、喋る内容は意味不明というか、

夢とうつつを彷徨っている感じでした。

 

当初は1ヶ月ほどで回復するだろうと言われていたのですが、6月中旬には、回復には3ヶ月かかると修正がありました。

 

ずっと一人暮らしだった母ですが、回復後は介護付きケアハウスに入居すると言い、この時点で申し込みを済ませました。

 

母は7月中旬には歩行のリハビリをしていたのですが、そこがピークで、その後は自力で立ち上がれない状態となりました。

 

「ベッドの上、手が届く範囲だけがママの世界になったよ」と申しておりましたが、

母は、現役時代は会社の重役をしてビシバシ檄を飛ばしていた人物。

こんなことでへこたれる人ではありません。

 

Wi-Fi環境を整え、スマートフォンで好みのYouTube動画をみたり、

色々な人たちとメールのやり取りをしたり。

 

元気な時と同じように、私のラジオ番組(みのおエフエム「デイライトタッキー」)も、

スマートフォンで聞いてくれていて、感想を教えてくれたりもしていました。

 

多分日本の中で最もハイテクを駆使して、自分なりの楽しみを続けている80代女性だったのではないかと思います。

 

9月に入ると、また誤嚥性肺炎となり、毎週末、病院から

「(命が)危ないので今すぐ来てください」と呼び出しがかかるようになりました。

ところが、第1週目の週末、第2週目の週末共に、頑張って持ち直してくれて、駆けつけた私や叔父おばはそのまま帰宅することになりました。

 

そして先週の金曜日(9月22日)、またもや呼び出しがかかりました。

病院の近くにいた 私のいとこ(母から見たら甥)や、叔父叔母(母の妹やその夫)、そして私が会いに行きました。

 

相変わらずコロナが流行しているため、ベッドサイドに行けるのは一人ずつの規制がありました。

最初に私のいとこが、次に叔母があった時には、意識があり、手を握り返してくれたそうです。

ところが私が枕元に立った時には、目が虚で、私だとわかってくれたかどうか、わからない感じ。

 

とはいえ、この時点ではまたまた持ち直してくれて、看護師さんが「毎週毎週お呼び出しして、本当に申し訳ないです。今日もまた帰っていただくことになりそうです」と謝ってくれました。

 

いえいえ、回復してよかった…と帰り支度をしたときに、呼吸がまた不規則になったと呼び戻され、今度は私、おじ、叔母二人の4人が同時にベッドサイドに行っても良いと言われました。

四人でベッドを囲み、手を握ったり、足をさすったり。

その時に、叔父が「〇〇ですよ、来ましたよ」と声をかけたところ、虚だった目がパッと見開かれ、明らかに誰だかわかったように見えました。

そして、母はほっとしたような、会うべき人たちに会ったと思ったかのような、安心した表情になり、目を瞑りました。

そして、目を瞑った後すぐに、呼吸が止まったのです。

 

その間、1分なかったと思います。

痛みも苦しみもなく、すっと息を引き取ったように見えました。

 

母は80歳をすぎた頃から、終活をし、身の回りのものを整理していました。

着物、食器、家具などなど。

私も色々なものを引き継がせてもらいましたが、私は子どもがいないので、

もし私が引き継いだとしても、私が死んでしまった時に処分されそうなものは、

他人様でもどなたでもいい、希望してくれる人に譲るようにしていました。

 

母の愛用品はそれぞれ、収まるべきところに収まり、入院直前の母の家は、

がらんとした状態でした。

私はここ数年、週に一度、食材を買って母に届けていたのですが、

家具や調度品が減り、部屋が広く見えるようになってきたのを見ては、

「私はこんなふうに思い切ってものを手放すことはきっとできない。

我が親ながら、すごいなぁ」と思っていました。

 

そしてこの度、母の最期を看取った時も、

親しい家族に見守られて、眠るように息を引き取るなんて、

我が親ながらなんとあっぱれな最期だろうかと思いました。

私も亡くなる時は、こんなふうに亡くなりたい、と。

 

母がこの世を去ったのは、2023年9月22日(金)16時46分、享年84歳でした。

 

通夜式は9月25日(月)、告別式が9月26日(火)。

偶然ですが、母が亡くなってから告別式まで、私はどんな仕事にも影響がありませんでした。

今月は前半が忙しくて、もしもう少し早く亡くなっていたら、色々なところに支障があったのに、本当に、何にも影響がなかったのです。もちろんレギュラーのラジオ番組にも影響がなく、そういう日を選んでくれたのだろうかと思うくらいです。

 

 

母の遺影は、この写真から作っていただきました。

これは今から24年前。

母の還暦の時に撮影したツーショットです。

 

母が還暦を迎えた時に、私は何をプレゼントしたらいいか随分悩みました。

母は食が細くて、お祝いの食事会というのを喜びそうになかったのです。

そして身の回りの品や宝飾品もすでに一通り持っていて、今更私が買えるようなものでは

喜んでもらえない気がしました。

 

そこで閃いたのは、二人での記念撮影。

昭和の時代、家族の節目には写真館で家族写真を撮るご家庭が多かったと聞いています。

私は母とこういった写真を撮る機会がありませんでしたので、

宝塚ホテルの写真館で、プロに撮影してもらうのを還暦祝いのプレゼントにしたというわけ。

母はこのアイデアをとても喜んでくれました。

 

そして、この写真から作った遺影を、叔父叔母(母の兄弟)や参列者の皆さんも

とても喜んでくださいました。

 

そう、家族葬にしたにもかかわらず、母の生前ご縁があった方たちが、

遠方から(東京やアメリカからまでも!)駆けつけてくださったのです。

本当にありがとうございます。

 

来てくださった方に、在りし日の母を偲んでいただくための写真コーナーをご用意しました。

 

今回、私が喪主を務めました。

通夜告別式まで、目が回るくらい忙しくて、感傷に浸っている時間は皆無。

泣いている暇はないのでしたが、本日の告別式の途中、私の中の何かが切れてしまって、

ずーっと涙、涙。

何が私をそんなに泣かせたかというと、ふと脳裏に蘇る、母の喜んだ顔でした。

 

私が本を出版した時、ラジオでレギュラー番組が決まった時のような転機だけではなく、

些細なことで母が喜んでくれた時の顔がふと思い出されたのですよ。

ああ、あんな小さなことで喜んでくれていたなぁ、と思うと泣けて。

泣きながら喪主の挨拶をしたので、「聞き苦しい挨拶だなー」とその点は反省しております。

 

でも後悔は全くありません。

 

母の、安らかな最期に立ち会えたので、

「あの時ああしておけばよかった」「もっとこうしておけば良かった」という後悔が

全くないのです。

 

個人的なことをダラダラと書き連ねてしまいました。

 

さぁ、今日はしっかり寝て、明日からまた頑張ります。

多分、母もそれを望んでくれていると思うので。

 

 

ブログランキングに挑戦中

もし記事を気に入っていただけたなら、

ポチッとクリックよろしくお願いします。

   ↓


日々の出来事ランキング