本日、父の告別式、お骨あげの後、初七日を終えることができました。
先週水曜日、突然 みのおエフエムの朝の番組「デイライトタッキー」をお休みさせていただき、ご心配をかけたところからの顛末を合わせてご報告いたします。
発端は昨年(2022年)12月末。
父は膵臓癌で余命半年の宣告を受けました。
父は人一倍健康管理に気をつけていて、半年に一回健康診断を受けていました。
半年前には見つけられなかった病変が発見されたということになります。
しかも、ステージ4で手術は受けられず、抗がん剤治療のみで対処することになりました。
この段階で私は ある意味楽観していました。
というのも、祖母(父の母親)も膵臓癌でしたが、当時の祖母は60代で細胞が若かったことが癌の増殖を早めたのだと聞いていたのです。
父は87歳。もう老齢だから、癌細胞の成長も遅く、寿命が先か、癌が先かという展開になるのでは、と思ったのです。
その上、祖母が亡くなったのは40年ほど前の話。
医学は進歩しているはずだから、抗がん剤が父の癌のタイプに合えば、余命は伸びるのでは、と。
今思うと病気に関する知識がなく、甘い考えでした。
年が明けて、2023年。
抗がん剤治療が始まって父は衰弱していきました。
父の望みもあって、父は自宅で投薬を受け、週に一度通院して抗がん剤治療を受けることになっていました。
私が父と最後に会ったのは1月28日(土)。
とてもしんどそうでしたが、薬が効いているのか足のむくみが取れていたので、翌週の抗がん剤治療が合えばいいのになぁと思っていました。
そして2月1日(水)の朝。
みのおエフエムのスタジオに向かう直前に、叔母から電話がありました。
父が夜中に急な痛みに襲われ、救急車で主治医の元に向かうのだと。
その時私が思ったのは、ついに膵臓癌の痛みが出たのか、ということでした。
先に書いた祖母は、不定期な背中の痛みを訴えたものの、なかなか癌が発見されず(膵臓癌は発見されにくいらしい)、本人も筋肉痛や腰痛だと思い、整骨院などに通っていました。癌が発見されてからは、どんどんと痛みが増していき、見ているのも辛かったです。
幸いにも父は痛みはないということで、それだけは喜んでいたのに、ついに来たかと。
これで自宅療養は無くなってしまったなと思いつつ、そのまま みのおエフエムに向かっていたら、到着直前に叔母から再度電話があり「医師から後2、3時間しかもたない、親しい人を呼んでくださいと言われたよ」と。
あと2、3時間しかもたない?
は?
どういうこと?
余命は半年だったはずでは?
意味がわからず、叔母に聞き返すものの、叔母もかなり動揺している様子。
「来れたら来て」と電話を切るのでした。
ええええ?
時計を見ると、8時50分。
生放送は10時開始です。
今から代打してくれる人が見つかるのだろうか?
とりあえず みのおエフエムに電話して局長に事情を話したところ、何の迷いもなく「こちらはなんとかしますから、お父様のもとに向かってください」とのこと。
ありがたく 父の入院先に向かいました。
(番組は、一つ前の生放送を担当している やぶたあきこさんが引き続きの代打を引き受けてくださったのでした。感謝しても仕切れません)
父のかかりつけ医は西宮市にありまして、そこに向かっているとき、ちょうど池田市内を走行中、叔母から再び電話があり「今、心停止した」。
9:20でした。
親族が揃うまで待っていただけるということで(何を待ってくれるのか?!)、訳がわからないまま 病院に向かいました。
医師が死亡宣告をするまでは「死亡」ではないんですね。
叔父や叔母、縁者が集まったところで主治医が来てくださり、死亡宣告がありました。10:30でした。
なんで?余命半年って言ってたじゃない?まだ1ヶ月だよ?!
主治医がおっしゃるには、転移していた肝臓の腫瘍が破裂し、お腹の中で大出血があったとのこと。
救急車に同乗してくれた叔母によると、父は救急車を呼ぶのが遅いと文句を言い、救急車の中では「寒い」というなど、当初は意識はあったのだとか。でも、病院について主治医が駆けつけてくれた時にはもう意識がなかったそうです。
つまり痛みは膵がんのものではなく、腫瘍の破裂と大出血によるものだったのでした。
あの、激痛にさらされることなく、一度の痛みで旅立つことができたのは、父にとって良かったのかもしれないと思いました。
そして、余命とは、必ずそれだけの時間を与えられているのではないということも実感しました。
父の死に顔を見つつ、「明日がお通夜かなぁ、だったら エフエムあまがさきの『昭和通二丁目ラジオ』もお休みしなくてはいけないけど、今から代打を探していただくのも大変だろうなぁ」なんて思っていました。
ところが、心配は不要でした。
今、火葬場が混んでいて、お通夜が5日(日)、告別式は6日(月)になったのです。
ですから「昭和通二丁目ラジオ」は、そのまま普通に登板することにしました。
というのも、膵臓癌で亡くなった祖母が、とても仕事を大切に考える人だったから。スケジュール的に可能であれば、ちゃんと番組を全うすることが祖母の教えに叶うことだろうし、父も納得してくれると思ったのです。
私は番組冒頭、自己紹介の時に必ず言っていることがあります。
それは「”いつも心に太陽を”をモットーにお送りしています」という一言。
パーソナリティも人間だもの、機嫌がいい時悪い時、悲しい時、嬉しい時、色々あります。だけど、そんなことリスナーさんには関係がない。いつも心に太陽を、ファンだったHIROMI GOの歌のタイトルから頂戴したキャッチフレーズですが、今回ほど このモットーを噛み締めたことはありません。
父は8人兄弟の長男のため、私には多くの叔父や叔母、従兄弟がおります。
親の葬儀は大変なものだと聞いているのに、親戚が皆協力してくれて、今日の告別式まで終えることができました。
父の死に顔は毎日変化していき、どんどん穏やかになっていきました。
それを見ているうちに私の気持ちにも変化が。
我が家にはいろいろな事情があり、私は父とはとても疎遠でした。
父との思い出のハイライトは1970年の大阪万博。何度も連れて行ってもらい、多くのパビリオンを回った思い出です。
でも7歳になった頃から、いろいろな大人の事情で父との縁が薄れました。
話をする時もずっと敬語で、父と娘というよりは上司と部下みたいな感じだったと思います。
可愛がってもらった記憶もほぼありません。
だから私は、父に何かあっても冷静でいられる自信がありました。
どうせ人間は一度は死ぬんだし、それが遅いか早いかだけだよ、と。
ところがですね、いざとなると涙ボロボロで、自分で自分にびっくりしました。
なぜ私はこんなに泣けるんだ?!
6日間 安置している父の表情はどんどん穏やかになっていきました。
それを見ているうちに私も、父は父なりに私を大切にしてくれていたのだと思えるようになってきて、今日の告別式となりました。
私と父とは普通の親子関係ではなかったし、甘えたりしたことはほぼゼロだけど、父が私を信用(信頼?)してくれていたのは間違いないと思っています。
その信頼を裏切らない生き方をしたいものだと、そう思った告別式でした。
ちなみに、父の享年は87歳。昨日、2月5日が誕生日で米寿目前の旅立ちでした。
なお、個人の遺志により家族葬を行い、親しい方達にもお知らせをしませんでしたし、弔電や供花、お香典などもご遠慮させていただきました。
生前お世話になった皆様には失礼をいたしました。
謹んでお詫び申し上げます。
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