ある程度鎮静しつつあるとは言え、新型コロナウイルスの影響は、様々なところでドラマを生み出しているようです。たとえていえば、老舗が事業継続を断念するなどの例がそのひとつだと思います。

 

 例を上げれば、コロナ禍の本年420日には、東京・東銀座。「歌舞伎座前の弁当屋」として有名だった弁当製造、(株)木挽町辨松(こびきちょうべんまつ)が152年の歴史に幕を引いたそうです。

 さらに、511日には、1877年創業の宮城県大崎市の豆腐・油揚げ製造販売の老舗「粟野商店」が、新型コロナによる百貨店の営業自粛などが原因で資金繰りが悪化、自己破産申請に追い込まれたと言います。

 

 古くは関東大震災や昭和恐慌、太平洋戦争などの経済的危機を潜り抜けてきた老舗であっても、今を生き延びるのは至難の業だという事なのでしょうか。何代と受け継がれてきた事業継続のための知恵や慣習が何らかの事情で全く役に立たなくなってしまうということが起きているのかもしれません。

 

 今回は、よくある勘違いのひとつ、「変動費の勘違い」とういうお話ししたいと思います。

 

 事業継続のためにはコスト(費用)とうまく付き合わなくてはなりません。そのコストですが、大きく分けると「変動費」と「固定費」に分けることができます。

 

 損益分岐点図表でよくお目にかかるものです。

 しかし、この損益分岐点図表そのものが、「変動費の勘違い」の原因なのかもしれません。

 「変動費」を『売上高の変動に応じて増減する費用』...と説明する場面がよく見受けられます。上の損益分岐点図表を見る限り、この説明で良いような気がしますが、実は厳密にいえば違うのです。

 

経営会議などで、『....もし仮に、売上高が20%減少したと仮定しても、限界利益率は30%ありますから、年間〇〇円の固定費のカバーはギリギリ可能となります』とかいう会話がさも当たり前のように思えそうですね。

 

 では、詳しく説明いたしましょう。

 

 ある専門店Aがありました。取り扱う商品の販売価格は100、また商品の仕入価格(変動費)70、限界利益率(売上高-変動費)30%で、毎月1000個を販売していました。また月の固定費は25,000で、毎月5,000の営業利益を出していたのです。

 ある日、専門店Aに競合する専門店Bが近くに出店し攻勢を仕掛けてきました。専門店Aの売上は従来の70%にまで減少し、営業利益は4,000の赤字となってしまいました。

 専門店Aでは緊急販売会議が開かれました。会議では、以下のような意見が出されたのです。

l  売上拡大が急務だが、現況では簡単にはいかないだろう。

l  仮に販売単価を引下げででも、売上高の拡大を狙うことが重要ではないか。

l  単価引き下げで販売数量をある程度確保すれば、売上高の減少はある程度食い止めることができる。

l  さらに、固定費の削減を行うことにも取組むことが必要である。

l  販売単価を引下げても売上高が確保できれば、変動費率は変わらないのだから、固定費削減により営業利益を黒字化できるはずだ。

 専門店Aでは、以下のような利益計画を打ち立てたのです。

 早速販売会議で決定したことを実践してみました。固定費はみんなの賢明な努力で削減には成功したものの、営業赤字は以前に増して増えてしまったのです。

 さて、何が間違っていたのでしょうか。確かに単価を引下げた結果、販売数量は予想通りに増加したのですが、限界利益が大きく計画と食い違ったのでした。

 

 では、何が計画を狂わせたのでしょうか。

『販売単価を引下げても売上高が確保できれば、変動費率は変わらないのだから』が勘違いだったのです。

ミスの原因は、売上高にただ単純に変動費率を乗じて限界利益率を計算してしまったことです。自社の限界利益率は30%という固定観念が赤字を拡大させてしまったわけです。

 言いたいのは上の通りでして、

 例に挙げた専門店Aの元々の赤字の原因は、販売単価は変わらなかったものの、販売数量が1000から700に減少したことで変動費も下がったが、限界利益が減少したことで、ついには固定費を賄えず赤字になったのです。

 

 そして、販売数量を増やすため単価を引下げたものの、一商品当たりの変動費は何も変わらず、単価を引下げた分、限界利益が減少して赤字額を拡大させてしまう結果となったわけです。

 

 よくある管理会計での勘違いの一つをご紹介しました。

 

 安易な単価の引下げや、過剰な値引きは、企業の命取りになりかねません。事業の存続自体を危うくしてしまう引き金にもなってしまうのです。

 

 コロナ禍で、さまざまなドラマがまだまだ生まれるのではないかと思います。ただ、売上高さえ伸ばせば何とかなるといったような経営は、ともすると、当然気付いてもよいことでさえ、見えなくしてしまうこともあるのかもしれません。

 今から100年前、世界で5億人もの感染者を出したスペイン風邪ですが、日本では、大正7年から8年にかけての第1次流行期で感染者=2116万人、死者=25万7000人でした。さらに、大正8年から大正9年にかけての第2期流行期では感染者=241万人、死者12万8000人だったそうです。

 

 ウィルス自体が未発見の時代でしたが、当時も今と同じく「学校の一斉休校」「マスクの着用やうがい手洗いの実施」「イベントの自粛」が施策として行われたらしいです。してし、結果として多くの人が感染してしまい、結局終息に向かうには集団免疫を獲得するしかなかったようです。

 

 さて、現在の「コロナショック」ですが、飲食・宿泊業などや菓子製造業その他の業種で売上高が蒸発するように無くなるという現象が現実に起こっています。

 

 では、極端な想定ですが、突然売上が無くなってしまった場合、何が起こるのかを考えて見たいと思います。

 たとえば、観光業に携わる事業者さんや、自社や得意先が休業要請を受けたなどのケースが考えられます。

 

 このブログでも何度か書いたことなのですが、売上高が減少した場合には、一時的に資金繰りが楽になったような現象が生じます。

 これを貸借対照表(以下B/S)の動きで説明したものが下の図表です。

 

 

 正常な経済活動下である【コロナ流行前】の図にあるようなB/Sで、突然売上がゼロになるわけです。その後の活動としては、

  買掛金を現在有る現金・預金で決済します。

    得意先から売掛金を回収します。

    手持ちの在庫を売却して現金化します(投売り的な売却となるかも知れませんが通常の価格で売却できたと仮定します)

 

以上のような取引の結果、B/Sからは売掛金・棚卸資産・買掛金が姿を消し、大きく現金・預金が残る結果となります。これが、売上が減少していく過程で、なんとなく資金繰りが楽になったようになるという現象なのです。

 

 それでは、この逆を考えて見ましょう。

 いずれ、新型コロナウィルスに対応するワクチンが開発され、通常の経済活動が再開される時はきっと来るはずです。

 アフター・コロナです。再びお得意様から注文を受けて、売上高が戻る過程で何が起こるかを見て見ましょう。

 下の図を見てください。【コロナ終息時のB/S】からスタートです。

 上の図の【コロナ流行中B/S】時に貯まったように見えた現金・預金は、その後のランニングコストとして半分に減少していると仮定しての事業再開です。

 

 まず、商品や原材料を仕入れます。品物を仕入れても買掛金が発生するだけで直ちに仕入資金が出て行くことはありません。

 その後の活動としては、

    商品を仕入れたり作ったりして棚卸商品が発生します。

    お客からの注文が入り、品物が売れて行き売掛金の発生です。

    買掛金の支払いで現金・預金が出て行きます。

 

ここではたと、社長は気づくのです。『お金が...無い‼』

※売掛金を回収しない限り、買掛金が支払えない‼

※売上を拡大するために棚卸商品を増やそうとすると資金が詰まってしまう‼....などなど。

 

 『運転資金』=(『売掛金』+『受取手形』+『棚卸資産』)-(『買掛金』+『支払手形』)の式を覚えていますか?

 

結論から申せば、『売上高が増加していく際には、十分な資金を必要とする』ということなのです。

 

 新型コロナウィルス感染拡大を受けて、売上高が大幅に減少した、若しくは今後減少が予想される事業主が多くいます。政府も公庫をはじめとする金融機関に対して、そのような事業者に対して実質無利子融資などの提供を勧めています。

 『いくら借りるのが良いのか?』などの質問があります。『資金をいくら持てばよいのか?』などという質問もあります。

気を付けたいのは、この嵐が過ぎ去るまでの間を乗り切るだけの額ではないという事です。

アフター・コロナで立ち上がるために必要な運転資金を十分に確保しておくことが大切なわけです。

何とか嵐を乗り切ったのに、最後の最後の立ち上がりにコケてしまっては、元も子もありません。

 

 今は非常時です。借入は躊躇なく、十分な資金を借りることです。仮に、余れば返せばよいだけのこと。

 資金施策には、必ずアフター・コロナの立ち上がり資金を含めて行ってください。

 

 先月も書きましたが、『明けない夜はない』し『止まない雨はない』のですから。

 

 お店屋さんで、お客さん自身が棚に陳列されている商品を直接手に取り、選び、気に入れば買い物かごやショッピングカートに入れ、それをレジで一括会計し代金を決済し、そして持ち帰る。

 

 今では当たり前のスーパー・マーケット等での買い物のスタイルです。

 でも、この当たり前の買い物スタイルですが、今から90年以上前のアメリカでは全く珍しいものだったのです。

 

 その頃のお店屋さんでは、お客さんがカウンター越しに欲しい商品を店員に伝え、その店員が後ろにある棚や倉庫から商品を取り出して、代金と引き換えにお客さんに渡すやり方が一般的だったのです。特にチェーンストア大手のA&Pが1912年から全米展開した「エコノミー・ストア」は、従来の配達と掛売り制度を現金持ち帰り主義に改め、経費の徹底的節減を図ることによって廉価販売システムを採用したものでした。

 

 1929年9月の米国の株価の大暴落に始まった世界恐慌が世界中を席巻していた1930年、ニューヨーク州のジャマイカ市でA&Pの10倍もの店舗規模をもつ、セルフサービス方式を導入した本格的な食品スーパー・マーケットが誕生しました。

 世界経済が大きく動揺する中、考え得る限りの経費を削ぎ取り、より低廉な価格を消費者に提供すべく、小売店のスタイルがその姿を大きく進化させたのでした。

 

その後、この変化を一時的なものと捉え、従来型の小売りを続けたチェーンストア大手のA&Pは衰退の一途をたどり、このスーパー・マーケットスタイルが全米を席巻したのでした。

 

 ※セルフサービスの起源は1916年にクラレンス・サンダースがテネシー州メンフィスにオープンした食品や日用品を販売するグロサリーストア「Piggly Wiggly」とされている(ウィキペディアより)

 

 時代は進み、1994年の米国マンハッタン、ウォール街での出来事。その年の12月のメキシコ・ペソ切り下げと変動相場制への移行をきっかけに通貨危機が発生(テキーラ・ショック)、瞬く間に新興市場国に波及したのでした。

 メキシコへの投資がバブル状態となっていた米国では、過剰な投融資が原因で経済が大きく傷つき、金融の中心地であったウォール街は大混乱を極めていたのです。

 

 この経済危機の中、今では当たり前の、しかし当時としては革新的なビジネスが産声を上げたのです。創業したのは、それまでウォール街でヘッジファンドなどの金融業で金融の業務をしていたジェフ・ベゾス。創業した会社名は「アマゾン」。

 

 米国経済が大きく揺らぐ中、一人の野心家が、インターネットの可能性を直感し、金融の世界から飛び出したのでした。

 

 これまで私たちは幾度となく、今まであったビジネスが、新たに出現してきたビジネスモデルに淘汰され消えて行く様を見てきました。

 ご紹介した例はほんの一部ですが、ビジネスの新たな芽、新たな形、より消費者の心をつかむモデルは、果たして「経済危機の中で生まれ、進化していく」のではないでしょうか。

 

 現在、新型コロナウイルスが世界経済をズタズタにしつつあります。きっときっと、新たなビジネスモデル、それも予想もできないニューモデルが、そこここに芽吹いているものと思いたいものです。

 

 それは、テレワークなどの在宅勤務をより利便性の高いものにするサービスかもしれませんし、また、家に居ながらにして思いもよらないサービスを受けることのできるビジネスかもしれません。

 

 そして、経済社会の新陳代謝がビジネスモデルの進化に繋がり、更なる経済発展が私たちの暮らしをより豊かにして行くのです。

 

 私たちは、新型コロナショックを災いと捉えるのでなく、ビジネスの進化のための試練と捉えるという発想を持つべきだと思います。

 

 平時には何だって進化の歩みを止めてしまうものです。有事の今だからこそ、進化の種、見つけて見ませんか。