昨日の記事

◆母の涙 全てをゆるす

 

の中でリンク貼って紹介した8年前の記事

 

母の涙

 

で、

 

そして、母の流した涙を肌で感じた私だから、こういう性格になったんだなと合点がいって。

 

人の悲しみにとても敏感。

悲しい思いをしている人をほっておけないタイプ。

悲しんでいる人がいると一緒に悲しくなってしまう。

感受性が強すぎる

 

 

と書いていたのですが

今の私は

「悲しい思いをしている人」を

すっかりほっておける人になりました。

 

悲しんでいる人がいても一緒に悲しくならない人になりました。

 

 

感受性は強いのかもしれないけれど

(いや、もっと感受性が強い人はたくさんいらっしゃる)

必要に応じて

スイッチを切ることができるようになりました。

 

 

もし、悲しんでいる人がいても

その人の人生において「悲しむ」が必要な時だと思うし

悲しむことも大切だと思うようになったし

決してその他人の感情を勝手になんとかしようなんて

思わない。

 

 

全ての感情はあってもいいもの。

「悲しい」にバツをしない。


 

悲しんでいる人を勝手に救おうとしない。

救おうなんて僭越、大きなお世話。

くらいに思っています。




その人はその人の人生を一生懸命生きていて

わたしは私の人生を生きる。

 

 

感受性が強いと思っていて

生きづらいなあと思っていたかもしれない若い日。


それもなんだか可愛く思えます。


今の私は鈍感で、他人にとっては気が効かなくて、嫌なやつだったりするかもしれないし、お門違いな人だったりするかもしれないし、空気も読めない人だったりするだろう。

そしてそれでよかった。

 

 

自分がここ変えたいなと思う部分って

変えていける。

それは「より良くなる」とはちょっと違うのかもしれないけれども、自分にとっては楽に生きていけることだったりします。

 

 

 

隣に悲しんでいる人がいても

そっとほっておいて

その人がまた笑顔になった時に

一緒に笑う。

そんな私になったかもしれない。

その方が私にとってはいいんだ。


 

 

たった8年前だけれど

あの記事の時の私とは

別の私がいる。

 

 

あの8年前の時は

まだ心屋仁之助さんに出会っていませんでした。

 

 

私、変わったなあ。

そして

全ての経験が「それでよかった」と今は思う。

年寄りみたいなこと言うけど。(≧∇≦)

 

 

あの記事を読むと

たぶん昔は母に対して

被害者意識満載の嫌な娘だったんだろうなと思う。

(もはや忘れています)

そして、きっと

空の上で、母も私も

そんな役割をお互いに約束して

この世に生まれたのだろう。

 

 

だからそれでよかった。

祖母も、父もそうなのだろう。

 

 

お互いに役割を果たしているだけ。

 

 

おばあちゃんもいいところあったしな。

母のことを褒めていることもあったしなあ

(本人の耳には

入っていないかもしれないけど)

 

 

そして

なぜか

女の子に生まれたことに全く罪悪感がない私。

 

 

神様ありがとう。


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フィレンツェでるるに似た犬を見かけて
和みました。