近くにビッグ〇ーターの店舗がある。
いや、有ったと言った方が正解か。
例の事件以降、しばらくは開店していたが、閑散としていて、先日、閉鎖してしまった。
駐車場から車が撤去され、黄色のテープが貼られている。
風に煽られて、テープがパタパタと音を立てている様子を見ていると、寂寞とした気持ちになる。
この3月、自家用車を売却しようと、店舗を訪れた。
ブログにも書いたのだが、ビジネスマナーを何も知らないような若い店長?の対応に、違和感を感じた。
この時、彼が上司に怒られる事を、異常に恐れているのを見て、違和感を感じていた。
半年後、ビッグ〇ーター関連のニュースが取り沙汰され、当時の違和感が腑に落ちた。
保険金の不当請求や不当な売買などをして、利益を出す。
利益が出せなければ、追い詰められる。
会社が利益だけを追求したあまり、こうした不祥事が起きるのだろうが、現場で働く社員も、そうした会社の姿勢や、上司に対して、恐れ、盲信し、半ば洗脳されていて、まともな判断を失っていたように思う。
ニュースが取り沙汰されて、店舗が閉まるまでの間、ウォーキング中に、例の店長が外に居たので、声を掛けた。
「こないだは、廃車してくれて、ありがとうな。色々大変そうやけど、頑張ってや。」
なんて声を掛けたのだが、
「俺、貴方の顔、分からないです。誰ですか?
あ、あ、あ〜!!分かりました!!あの時の…」
なんて言ってるのを見て、心底バカだと思いながら 笑、なんだか可哀想に思えた。
会社の品格や、そこで働く社員の品格の低さについて、書くつもりは無い。
ただ、誰も居なくなった店舗に、黄色のテープが、パタパタと風に煽られているのを見ていると、会社とは、エネルギー体だと感じた。
エネルギーを急速に失う様を見て、そこに寂寞さを感じた。
自身が、これからどう生きていこうかと考えた時、もっとエネルギーを持たなければという、思いがある。
これまでのサラリーマン社会は、会社というエネルギー体に属する事で、そこから、サラリーというエネルギーを分け与えられて、生きて来た。
ウォーキングをしていると、登る朝日に、強烈なエネルギーを感じる。
核融合により、分子が激しく爆破して、エネルギーを産生し続けている。
太陽のようにはなれなくても、自身がエネルギーを産生する為には、何が必要なんだろうか?と考えるようになった。
最近、愛を持って、自分や周りを見ようとしていると、しばらくはそうした気持ちになれるのだが、直に、愛が枯渇してしまう事に気がついた。
愛のエネルギーを枯渇させない為には、自身が、エネルギーを産生する必要がある。
自らエネルギーを産生する為には、何が必要なんだろうか?
ビッグ〇ーターのような会社を、急速に拡大させたのは、利益を上げ、資本を拡大したいという、激しい欲望だったように思う。
そうした欲や、怒り、悲しみ、嬉しさのような感情を持ち続ける事で、それは情熱となり、エネルギーを生み出すのだろう。
ビッグ〇ーターのように、周りからエネルギー=お金を不当に搾取する事だけが目的となれば、ニュースのような顛末になってしまう。
「お金をたくさん稼ぎたい!」と言うのも、情熱になり得るが、そもそも、情熱の方向性が間違っていたのだろう。
自身の話に戻ると、これまで、感情を爆発させるような事無く生きて来た。
と言うよりは、感情を抑えて生きて来た。
幼い頃から、感情を抑え、そこに強固な蓋をして、大人になっても、その蓋が取れずにいた。
最近、左脳、右脳について、関心を持っていると、幼い頃、ある時期を境に、右脳によって感じる事をなくしてしまい、ほぼ左脳だけで、生きて来た事が分かった。
嬉しい事があっても、
「これは、自分にとってはいい事なんだろう。だから、嬉しい。」
悲しい事があっても、
「これは、自分にとっては辛い事なんだろう。だから、悲しい。」
と、左脳の理屈を持って、感情を感じて来た。
幼い頃、何があって、そうなったのか、よく思い出せないのだが、なんらかの理由があって、右脳から、自然に溢れる感情を抑えるようになった。
青年期を無感動に過ごし、社会に出てからは、感情を抑える事を、ビジネスシーンでは求められていて、感情を出さずに生きて来た。
数年前、コロナ禍の圧倒的な孤独の時期に、自身が蓋をして来た、これまでの感情の存在に気付き、それを解放した。
それ以降、しばらくは、感情をどう出したらいいのか、分からなかったのだが 笑、明らかな変化がある。
以前は、全く興味が無かった、オリンピックや運動競技などで、無心に頑張っている若い人を見ていると、訳も分からず感動して、号泣するようになった。
先日、
「君たちはどう生きるか?」
と言うジブリ映画を見た際には、展開に理解が追いつかないまま、訳もわからず、号泣していた。
感情を抑えていた時期にも、あまりに激しい悲しみや、あまりに激しい怒りを感じた際には、抑える事が出来ずに、それをそのまま、ぶつけるように出していたのだが、最近では、普段から、感じた事を素直に周りに出せるようになった。
嬉しい事があれば、理屈無く喜び、嫌な事があれば、感情を乗せずに、嫌だからやめて欲しいと言えるようになった。
コロナ禍以降、あれこれと思考をして来て、それによって様々な気付きに恵まれて来て、10年の節目を前に、思考が執着そのものであると気付き、思考をしない事に取り組んで来た。
その時には分からなかったのだが、右脳で感じたままに生きる事をしようとしていたのだろう。
この夏には、初めて、この土地のよさこい祭りに、煽りのスタッフとして参加したのだが、音楽に、踊りに、毎日感涙を流した。
今も、ウォーキング中に、祭りの音楽を聞いていると、毎回、感動を覚えて、目頭が熱くなる。
朝日が登るのを見て、毎回感動をしている 笑
毎日、ひたすら感動している 笑
あれこれ考えずに、口を開けて 笑、過ごしていると、以前は、いつも思考ばかりをして、眉をしかめていた事が分かった。
そうして過ごしていると、何は無くとも、日々に心地よさを感じるようになり、そこに幸せを感じるようになった。
何より、感情の蓋が外れ、それを素直に出せる感覚があり、それを嬉しく思う。
最近、自分に周りに、愛を持って見る事を意識していると、愛もエネルギーである事が分かった。
そのエネルギーを生み出すのは、感情であり、情熱であり、そのエネルギーを何に変えていくのかが、大事だと気付いた。
ただ、
「愛している。」
と言葉で伝える事も大切な事だが、そのエネルギーを何に変えていくのかが、大切な事なんだろう。
もっと人と触れ合い、もっと感情を感じて、それをエネルギーとして、周りに愛をもたらせるような何かに変えて行く。
エネルギーは、ただ集めるだけで無く、エネルギーをただ浪費したり、ただ放出したりする事も無く、循環させていく事が鍵なんだろう。
五連休は、ほぼ、トレーニングに終わった 笑
最初の日には、久しぶりにネガティヴを辿ったが、乗り越えて、大切な事に気が付いた。
全ての気付きに感謝したい。