言葉は、人間が感じたり考えたり思ったりしたことを表現するための道具であり、人々の意思疎通のためには欠かすことができない。群れで生きる動物は鳴き声で様々な情報を伝え合っているとされるが、言葉の獲得で人間は社会性を発展させ、高度な文明を築いた。人間の知的営みの成果は膨大な言葉(文字)で残り、世界で人々が共有する。

 

 旧約聖書にある「バベルの塔」物語では、天に達するほどの高い塔を人間が建設していることに神が怒り、それまで1つだった言葉をバラバラにして人間を混乱させて建設を中止させたという。高い塔を建設するという共同作業は、建設部材や建設工法などの呼び名がバラバラでは工事に携わる人々が容易に理解できず、日常会話も不自由な状況にあっては不可能だろう。

 

 ある言葉が社会に定着するには、その意味するところが人々に共有されていることが必要だ。新しい言葉が社会に定着するには長い時間を要するのは、その言葉が意味するものを人々が共有するための時間が相当程度かかるからだ。だが、流行語などのように、その言葉の意味するところを人々が短期間で受け入れ、共有したかに見えても、飽きられるのも早いだろうから定着するとは限らない。

 

 中国文明の強い影響下にあった頃の日本では、新しい概念や技術などは中国経由で入ってきたので、それらを漢字で受け入れた。文明開花後の日本には欧米から大量の新しい概念や技術などが中国を経ずに入ってきたが、それらを漢字に翻訳して受け入れていた。新しい概念や技術などを漢字に翻訳する力が日本にはあった(ここで使っている「漢字」とは、日本語の中の漢字のこと)。

 

 カタカナ表記の氾濫を憂う声がある。そうした声が第二次大戦後の日本で顕著になったのは、欧米からの新しい概念や技術などの流入が大幅に増えて漢字への翻訳作業が追いつかなくなってカタカナ表記が増殖したからだろう。カタカナ表記で許されるとすれば、新しい概念や技術などを漢字に翻訳する努力は放棄され、やがて漢字に翻訳する力は衰える。

 

 カタカナ表記の氾濫を憂う声が絶えないのは、何を意味するのか不明なカタカナ表記が増えたからだ。カタカナ表記が意味するものを共有できない人々は、社会に定着していないカタカナ表記を振り回す人々にイラつく。欧米から流入する情報量が飛躍的に増え、新規のカタカナ表記を振り回す人々を見て、情報通ぶったりエリートぶったりしていると冷ややかだ(カタカナ表記を振り回す人々は、適切な日本語に翻訳する能力が当人に欠如していることも示している)。

 

 最近では行政関係でも新規のカタカナ表記が増えているが、それは英語に堪能な日本人が増えたからではない。新しい概念などを「輸入」してカタカナ表記で済ましているだけだ。カタカナ表記が増殖し、意味がよく分からないままに人々が暮らしている状況は、何やら「バベルの塔」物語を連想させる。意思疎通が軽視され、理解できない言葉が入り込み、人々がばらばらに分断されて統治される方向へ社会が向かっている兆しであるのかもしれない。