民主主義が成り立つ大前提は、主権を人々(人民)が持っていることだ。議会や裁判所などの社会制度を整え、人々による選挙を実施している国は世界に多いが、国家主権を人々が持っていないならば、どんなに体裁を整えようと民主主義は機能しない。さらに、民主主義が機能していると見られる国でも、例えば、議会によらず大統領令などで政治を動かしたり、議会を経ずに公金を支出したりすることが常態化すると民主主義が危うくなろう。
軍などや個人が権力を握り独裁している国でも、議会制度などを整備し、人々に投票させる選挙を行うのは、民主主義国と世界から見られることを欲するからだ。それらの独裁権力は民主主義など欧米発祥の価値観を批判することは珍しくないが、独裁権力の正当化のためには議会や投票など民主主義的な仕組みを用いる。
主権を人々が持っておらず、軍などや個人が独裁する国家では、権力は「力」によって維持される。だが、そうした「力」は国際的には賛同を得ることは難しく、独裁する権力の正当性には疑義がつきまとい、常に国際的な批判にさらされる。だがら、そうした独裁国の権力者は国際的な舞台に出ることを好まず、国内にとどまる。独裁国家の弱点は、外交のカードが威嚇と脅し、仲間褒めしかないことだ。
主権を持っていない人々による選挙は、独裁する権力の決定にお墨付きを与えたり、追認したりする儀式だ。そうした選挙の結果として形成される議会も、独裁する権力の決定を追認し、お墨付きを与える役割しかない。そうした過程を必要とするのは、独裁する権力のある種の脆弱さを示す。脆弱さとは、民意を聞く姿勢を示さなければならないことだ。
民主主義は主権者である人々(人民)が、権力に正当性を与える仕組みである。だから、現代の独裁する権力は、人々から正当性を与えられたという体裁を装う。帝国主義全盛の時代であれば、独裁することが独裁する権力の正当性であったが、貴族や王族、さらには軍の特権が否定されたのが現代だ。国家主権は人々(人民)が有することがフツーになった世界で、独裁する権力は独裁の正当化が必要になった。
人々が自由に投票すると、独裁権力を必ず容認するとは限らない。それで独裁する権力は、人々が自由に投票したと主張しつつ、監視を強め、投票結果をあらかじめ用意した筋書きに合致させるために手段を選ばない。人々からの支持を偽装する現代の独裁する権力は、人々を抑圧することで権力を維持していることを自覚している。
欧米などでは、自由投票の結果として分断や対立が強まる状況も見られ、民主主義の機能不全が論じられる。だが、分断や対立も人々の自由な意思表示の結果である。独裁する権力は人々の自由な意思表示を制約するので、分断や対立が現れるときには独裁する権力に対する抵抗などになる。