低くなること | キリストと共に

キリストと共に

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

ゼパニヤ書 3章17節

聖書でイエス・キリストは徹底的に低くなられました。つい私たちは高ぶってしまいます。しかし、私たちはキリストのように低くならなければなりません。


ピリピ2:8

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。



C・H・スポルジョンのメッセージです。

イエスは、私たちに謙そんを教えられる偉大な教師である。私たちは日ごとに彼に学ぶ必要がある。主がみずから手ぬぐいを取って、弟子たちの足を洗われるのを見よ。キリストに従う者よ、あなたは自分を低くしないのか。しもべの中のしもべとなられた彼を見よ。あなたは高ぶっていることはできないであろう。「彼はおのれを低くしたまえり。」この一句が彼の御生涯の要約ではなかろうか。地上におられた時、彼はとうとい衣を一枚ずつ脱ぎ、ついにはだかになって十字架にかかられた。そこにおいて最も奥深い自己を注ぎ出し、血潮を流し、私たちすべてのためにおのれを与え、遂に無一物となられ、他人の墓の中に横たえられたのではなかったか。私たちの愛するあがない主は、御自身をなんと低くせられたことであろう。では、なぜ私たちが高ぶっておれようか。十字架のもとに立ち、あなたをきよめられし深紅の血の一滴一滴を数えよ。いばらの冠を見よ。鮮血のほとばしる彼のむち打たれし両肩に目をとめよ。恐ろしき釘に打たれし彼の御手と御足、冷笑と侮辱にゆだねられた彼御自身を見よ。彼の内なる苦しみと悲しみの激痛が、彼の肉体の上にまざまざと表われているのを見よ。彼の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶叫を聞け。それでもあなたが、その十字架の前に身を投げ出さないならば、あなたはまだ十字架を見ていない。もしあなたがイエスの前に謙そんになっていないならば、あなたはまだイエスを知っていない。あなたは失われ、全く絶望状態にあったため、神のひとり子の犠牲以外には、何ものもあなたを救えなかった。これを深く考えよ。そしてイエスがあなたのために身を低くされたゆえ、あなたも彼の御足のもとでいっそう身を低くせよ。私たちに対するキリストの驚くべき愛を意識することは自分の罪を意識するよりも、さらに私たちを謙そんにさせる。主が私たちにカルバリを黙想させられんことを。さらばもはや尊大な態度をとることはできず多くゆるされしゆえに多く愛する者のへりくだった態度をとるであろう。十字架の下に高慢は立つ余地がない。私たちはそこに座して教訓を学び、立ち上がってそれを行なおう。

C・H・スポルジョン