一条天皇の周辺の争い

1.「一条天皇が伊周(これちか)を参列させたのは、道長を牽制するため」だと語ったが、その解釈は正しいとはいえない。  一条天皇にとって伊周は、いまなお思い続けている亡き定子の遺児である敦康親王の外戚(叔父)。それなりの立場に就いていてほしいと思っていた。敦康親王は第一皇子であり、この時点では、いずれは春宮(皇太子)になり即位する可能性が高かった。したがって、親王を支えるにふさわしい権威を与えたかったのだ。  

 

2.一方、道長もまた伊周を復権させたいと考えていた。だから、この人事は一条天皇と道長のコラボレーションといえる。その理由を、「光る君へ」の歴史考証も担当する倉本一宏氏は、「道長としては政権復帰の望みを絶ったかつての政敵に恨みを残されたくなかったのであろう」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。これまでも伊周が陰で道長を呪詛する場面がたびたび描かれてきたが、この時代は、そうした呪いのようなものが効力を発揮すると信じられていた。また、恨みをいだいて死んだ人間が祟ることもあった。そうであれば、道長も伊周を放置しておきたくはなかった。とはいえ、伊周を復権させることは、道長にとっては両刃の剣だった。

 

3.道長が一条天皇に入内させた中宮彰子(見上愛)には、いまだ子がなかった。今後、子ができたとしても、皇子が生まれる保証はない。だからこそ道長は、敦康親王を彰子に養育させ、敦康が即位することになっても、彰子が養母、自身は養祖父として君臨できるように算段していた。しかし、ほんものの外戚には敵わない。伊周の復権は、場合によっては、道長の権勢が伊周に取って代わられる可能性につながるものだった。だから、伊周は余計な動きなどせず、機を待てばよかったのだが、彼にはそれができなかった。

 

4.伊周による道長殺害クーデター情報。前述したような事情で、何としても彰子に皇子を産んで欲しかった道長は、寛弘4年(1007)8月、吉野(奈良県吉野町)の金峯山に登山した。修験道の霊地である金峯山に参詣するためには、3週間とも50日とも、或いはそれ以上ともいう厳しい精進潔斎を行う必要があるが、道長はそれをこなして参詣した。道長は自身の日記『御堂関白記』にも、そう書いてはいないが、参詣の目的が彰子の皇子出産祈願であることは、誰の目にも明らかだった。むろん、それは伊周には都合が悪い祈願である。

 

5.藤原実資の日記『小右記』は、この頃の記事が欠損しているが、後世の人がその内容をまとめた『編年小記目録』には、8月9日の日記の内容が記されている。それによれば、伊周と弟で「光る君へ」では竜星涼が演じている隆家が、平致頼と結託して道長を殺害しようとしていたという。それが事実であったかどうか確認する術はない。だが、『大鏡』にも、道長が金峯山詣での途中で伊周が不穏なはかりごとをめぐらしていると聞き及び、警戒を強めたという旨が記されている。少なくとも、伊周によるクーデター情報が流れていたことはまちがいない。ただし、このときは伊周が罪に問われることはなかった。結果としては、道長の念願がかない(伊周の願いは空しく)、中宮彰子は懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、敦成親王を出産した。

 

6.デリカシーに欠けるパフォーマンス。それから100日が経ち、敦成の「百日の儀」が彰子の在所で行われたのは、12月20日のことだった。そこで伊周は悪あがきともいうべき必死のパフォーマンスを示している。この時のことは、道長は『御堂関白記』に、実資は『小右記』に書き残しており、それによれば、ドラマでは渡辺大知が演じている藤原行成が、公卿たちが詠んだ歌の序題を書こうとしていたという。そこに現れ、行成から筆を奪って自作の序題を書いたのが伊周だった。その序題の中身が『本朝文粋』に収められているのだが、こんな内容なのだ。「第二皇子百日ノ嘉辰禁省ニ合宴ス。(中略)隆周之昭王穆王ハ暦数長シ。我ガ君又暦数長シ。我ガ君又胤子多シ。康イ哉帝道。誰カ歓娯セ不ラン」

 

7.つまり、敦成親王のことを、自分の甥である敦康親王に次ぐ「第二皇子」と明言し、「隆周の昭王」という語で道隆と伊周父子の繁栄が「長い」ことをアピールし、さらに一条天皇は在位(暦数)が「長い」ばかりか「胤子が多い」、つまり子供が多く、敦成のほかにも皇子がいることをアピールしている。敦成親王の祝いの場でそんな訴えをしても顰蹙を買うばかりなのに、デリカシーに欠けるパフォーマンスをせざるをえなかったのだろう。伊周がいかに追い詰められていたかをよく表している。だが、やはり、待てばよかったのである。

 

8.ふたたび立ちたくても糖尿病に阻まれ。翌寛弘6年(1009)正月、伊周の母である高階貴子の縁者である高階家の一派が、彰子と敦成、道長が死ぬように呪詛していたことが発覚し、その首謀者は伊周だとされた(『政治要略』)。伊周をやっと復権させた一条だったが、これでまた断罪し、内裏への出入りを禁止にせざるを得なくなってしまった。まさに伊周の自滅としかいいようがなかった。だが、それでも一条天皇は、寵愛していた定子の兄で、定子との間に生まれた第一皇子の伯父である伊周を大事にしたかったと思われる。もし、敦康が即位することがあれば、後見して欲しいという思いがあった。だから、翌年には伊周をふくみ呪詛に関与した者をみな赦免している。

 

9.ところが、そのとき伊周は、父の道隆からの遺伝なのだろうか、飲水病(現代の糖尿病)に侵されていた。寛弘7年(1010)1月28日、37歳でこの世を去った。そのころ道長は、娘たちの後宮に上級貴族たちの娘を、女房として次々と送り込んでいた。伊周にはそんな状況が苦々しく、自分の娘だけはそうさせまいと思ったのだろう。『栄花物語』によれば、2人の娘の前で、おまえたちを女房にしたい者は大勢いるのだろうが、そんなことになれば、自分にとっては末代までの恥だ、自分より先にこの娘たちを死なせてくれと祈るべきだった、と語ったという。しかし、父の死後まもなくして、娘は彰子の女房になった。

 

以上、香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

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