「均衡を図る」は「平等にする」ではない。
ベクトルの問題とスカラーの問題という違い。そうかもしれない。
個体にはどうしても他と同じにできない理由というか、境遇が存在している。
その境遇の違いが他の個体とは違う個性を育む。
境遇は、本人が意図してそうなることもあれば、意図せずそうなることもある。
個性はそうした境遇を蓄積したもの、いわば「記憶」のようなもの。
「均衡を図る」とは、この個性を殺さず、それぞれの個性を活かし、全体的な安定性を図ろうとすることだと考える。
「平等にする」は、この個性を差をなくし、全体的な安定性を図ろうとすることだと考える。
「均衡を図る」
メリットは、多様性をそのままに、多方面の「記憶」を生かせることではないか。そこには良い悪いの分別は関係ない。
デメリットは拮抗させるための制御が難しいことではないか。多様性の中には正反対の力関係がでてくる。そうなると喧嘩も起きる。
組織の中には必ずしも喧嘩が得意ではない個体もいる。強者と弱者の関係が生まれるだろう。
また、ひどい喧嘩だと相手を殺してしまうかもしれない。
均衡を図るために多様性を増やした結果、相手を殺して多様性が減るとなったら、お粗末な話である。
多様さは絶対的な総量の話であり、多様性の中で生じる善悪は常に相対的な話である。
Aにとっての善がBにとっての悪かもしれない一方で、Bにとっての善がAにとっての悪かもしれない。
「平等にする」
メリットは境遇の違いを吸収でき、個人差が少なくなるため喧嘩が減ることではないか。
デメリットは多様性が失われることではないか。そしてそもそも平均から大きく外れた人にとっては過ごしにくい場所となろう。
漉いて作った紙で「均衡を図る」と「平等にする」を比べると、次のようなことかもしれない。
なぜ漉いて作った紙なのかというと、その紙の作成工程において、繊維の絡まり方がどれひとつとして同じになることはないところを、個性のたとえとしたかったことによる。
「均衡を図る」とは、漉いて作った紙に適当にのりをつけ、多方面に渡って繋げ合わせながら広げて行く際、その広がり方が満遍なく行われること。重なりが足りず心もとない時は、何枚か重ねたほうがいいかもしれない。
「平等にする」とは、どれからもきりだせる決まった大きさに切り取って束ね、机の上でトントンと落とし、揃えること。切り落としてしまった部分はもったいないが、綺麗で整然とした束が出来上がる。
前者は薄くて破れやすい部分もあるが、広い絵を描ける。
後者は広い絵を表現できないが、描かれたその部分については破れにくい。
ともあれ、世界では「均衡を図る」ことと「平等にする」ことのどちらかでなければならないということはそもそもなくて、実際にはどちらも起こっていて、渾然としている。
「均衡を図る」を基本にして「平等にする」が所々で起こっている、ということかもしれない。
より詳細に見ると、組織構造の層の違いで使い分けられている、ということかもしれない。
ここではそれを細かく考えたいわけではないので、この辺りで止めておく。
要するに、どちらか一方ではなくて、両方起こっている、くらいにとどめておく。
(均衡を図ると平等にするを滑らかにつなぐ物理事象というものがあるなら、それはなんだろう)
「均衡を図る」にしても「平等にする」にしても、それなりに「知性」が求められる。
「均衡を図る」ためには、均衡させるべき環境を見渡せるだけの感覚器が必要で、それは均衡を図ろうとする広さへの理解が必要である。
そして感覚器が見渡せる範囲は限られているので、今観測している景色のみならず、時間軸に保存した以前の景色とつなぎ合わせて全体を再構成しなければならない。
そこでは効率的に保存する工夫をしてたくさん貯めた上で、効率的につなぎ合わせ、考察するといった工夫が求められる。
均衡させるべき環境の全体像を把握しようとすると知的でなければならない。
一方、「平等にする」ために平均から(あるいはそれに相当する指標から)差のある個体を平均へ導くためにはどうしたら良いのか、頭をひねることになる。一言で平均といっても、どんな指標を使ったら理想的な平均になるのか思案する必要もある。そして個性の違いが多ければ多いほど、対応せねばならない方角が増し、より一層、頭を捻ることになる。
こうした全体を見るなり、調整するなりで知性が求められる一方、こうした知性を発揮する存在は所詮、個体でしかない。
するとその個体の限界の範囲で、均衡にせよ平等にするにせよ操作しようとする。せざるを得ない。
個体の限界があるがゆえ、多くの個体は全てを見ることができずどこかに境界を引き、その手前と向こうで、均衡を図るべき範囲や、平等にする対象が絞られてしまう。
また個体は、それを思案する時間も、思案した結果を思考する時間も限られている。
我々が何らかの理論を組み立てるとき、世界の全てを対象にしない。
ある限られた範囲のシステムを想定し、それに対する理論を考える。
それはバネ定数に代表されるような話ということで。以下省略。
本来自然は、均衡へ向かうなり、平等にするなりの性質を持っていると考えられる。例えば熱力学の教えのように。
その終結を我々は待っていればいいはずなのに、そうならないのはどういう事だろう。
もし世界全体を把握した上で、均衡を図るなり、平等にするなりを、瞬時に起こせたらいったい何がどうなるのだろう。
そもそもそんなことがあり得るのだろうか。ありえないとしてそれは、何が原因でありえないのだろう。
均衡や平等に至るまでの時間があまりにかかり、我々が生きているような時間幅では起こらないほど、全体が広すぎるということなのだろうか。
それとも、自然の中には均衡や平等を乱そうよする要因が確かにあり、そうさせまいとする作用との間との、均衡を図るなり、平等にするなりも、考える必要があるということなのだろうか。
ひとつは時間がかかるということだろう。そしてその時間のかかり方が様々あるということだろう。
なぜ様々あるのだろう。
それはこの世界(個体を含む)を構成する要素が様々だからだろう。
なぜ要素が様々できてしまったのだろう。
ここにきて、個体と要素が曖昧になった。
この要素は、今まで言ってきた個体とみなせないのだろうか。
それは様々な要素の組み合わせの中で、組み合う量の違いが性質の違いを導く。
要素は基本的なものなのに、集まると性質が変わる。
個体を構成する要素が単に相対的に根源的であるという意味だけでしかないのかもしれない。
つまりその要素のに、さらに要素たるものがあるということである。
層をなしている。
多様でない要素が集まると多様になる。
何故そのようになってしまうのか。
そこではどのような形で均衡が図られ、平等にされ得るのだろう。
そこでは記憶が暗躍しているのだろうか。
そこでは知性が求められているのだろうか。
ひとつには、大きさがあるからとは思う。
集まっても一点に集約されない。集まれば集まるほど大きくなってしまう。
それが違いにつながってしまう。
そうやって考えると、大きさが変わる以外に、重さなんかも変わるのだろう。
それが違いにつながってしまう。
種類の少ない要素(個体)からできているのに、それらの集まり方の種類がたくさんあって、それでたくさん振る舞い方が出てきてしまう。
「どの範囲で均衡を図り、平等にしようとしているのか」こう考えている個体がどのくらい存在しているか測ることで、それら個体が構成する組織全体の豊かさが測れるのかもしれない。
確率や統計がこのような要素(個体)の集団的振る舞いの特徴を捉える上で重要な手法であることは間違いない。
ところで、意識される内容とは、
「均衡を図る」や「平等にする」が働いた結果、なのだろうか。
それとも「均衡を図る」や「平等にする」などが起こっている最中が、意識なのだろうか。
それとも「均衡を図る」や「平等にする」などではない、別の何かだろうか。
意識している空間は、ただ一点になっていない。
集中すると、あたかもその一点しかないようになっている。
ひょっとしたら「均衡を図る」や「平等にする」を一瞬で起こしている唯一実例、だったりとか?
計算しないで計算しているとなったら、お手上げなのだけれど。
重ね合わせみたいなことが起こっていて、何かが切欠となって決まるようなことは、量子の世界では起こっているらしい。
意識に関わるような記憶の仕掛けが解らない。
瞬間的な情景の再構成(=意識されるもの)に、記憶が関わっていることは、なんとなく見えている。
記憶をするたび、意識にのぼらせる時に計算せず、瞬時に算出できる下地を、築いているのだろうか。
そこに「均衡を図る」や「平等にする」が含まれているのか。事前に行う何かとして。
量子の世界に近い規模ともさほど離れてはいないとも思われるため、気になる。
あるいは生物の働きとも符合する何かとして起こっているかもしれない。
酸素や細胞を維持するための材料を、体の仕組みは極力、平等に配らなければならない。
細胞はその中で構成と破壊を繰り返している。それは均衡でもある。