チケット(4) | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

 名前を思い出したら先に進むかもしれない。爆竹が次々弾け飛ぶみたいに次々、記憶を思い出してゆくのだ。けれど名前を思い出すために記憶が必要なわけで、話があべこべになっている。爆竹に火をつけるために火のついた爆竹が必要になっている。

 パジャマの焦げ茶が白くなってしまうほど彼女の周りは眩しい。太陽も無いくせにここだけが明るい理由なんてあるのだろうか。夢の中だから何でもあり。そういうことだろうか。

 目前の眩しさに堪え兼ねて彼女が視線を空へ逃すと闇の一面、癒されて安堵する。よく見ると闇の中に星が散っているが、手前の光が瞳孔に差し込まれてはっきりしない。そんな星々に目を細める彼女。様々な言葉を星のように頭上に散らかしては、そこに自分の名前がないか漁ってゆく。今までだって何度もそうしてきたのだからここで見つかるなど当然、期待しないのだけれど。

「わからないですよね」

 女の子はそう言ってほくそ笑む。幼児の表情ではない。彼女はあまりの子供気無さに恐ろしくなる。

 月の砂は踏まれて靴跡を残す。その子、四歳くらいの簡易宇宙服を着たその子は、地面に象られた足跡を重ねるように踏みながら、彼女の周りを何度も巡って、横目で冷ややかな視線を彼女に向けた。

「私が思い出せない事を知ってて喜んでいるみたい」と女の子に語る彼女の声は、縮んでいる。

「そんなことはない。私はあなたが見つけてくれると確信している」

 思い出せないことを単に笑っているわけではない、とその子は言ったのだろうか。

「どうして?」

「だってそれは、あ……」

 その子の「あ」を聞いた途端、その子が視界から消えた。いや、消えたのではない。自分が引っ張られて宇宙高く「釣り上げ」られたのだ。

「え」

 彼女がそう言った時にはもう、その子は足元のずっと下で小さくなっていた。その子は両掌で筒を作り、声を飛ばそうとしているけれど何も届いてこない。宇宙の深淵が悉く、音という音を吸い尽くしてしまう。

「突然介入され…、焦りま…た。今は、ひ…まず、……を離れないと、あなたの物……身体が、危険です」

 背後から別の声がする。「機械染みた」声でしかも、電波の悪いラジオを聴くみたいに雑音混じり、途切れ途切れである。

「さっきから、……もお呼びして……のに、聞こ……いないご様子……た。それだけ……からの干渉が、強か……のでしょう」

 彼女はすぐ後ろでそれを聞いた気がして顔を後ろに向けようとするがどうも、体が言う事を聞かない。足の裏の摩擦がないので首を動かすだけで体が首と反対に回ってしまう。

「どこにいるの?あなたを見つけられないのだけれど」

「近く……ます。ですが、…を実…化できるほど……に干渉……ていません」

「これからどうなるわけ。私はパジャマ姿のまま宇宙空間を漂い続けるの?」

「ま……戻します」

「戻す?それはこの夢から現実に?」

「まずは……から正常に。その……現実に。段…を踏ま……なりません。行くは易く、戻るは難しです」

 その言葉と共に体が上へ引っ張られる。それがまた相当に強いと見え、あっという間に女の子の姿は消えて、月面の細かい凹凸も判らなくなった。

 そして離れて知ったが、先ほどまで立っていたそれは月とは言い難かった。月だと思っていた球体は大きな眼球のような見てくれをしていた。真ん中に瞳孔のような闇があり、先ほどまで女の子と立っていた場所は、瞳の虹彩のように輪を描いて球面から一段突き出ていた。

 月らしくないその星が遠ざかると、向かう先に何があるのかと気になって彼女は進行方向を見る。地球のように青く、雲のような白い斑ら模様を纏う星があった。

 相変わらず土星の輪のように蛍光灯が地球に輪をかけて薄暗く光っている。地球をよく見ると、大陸が変である。普段見ている地図の大陸という大陸がそこには見当たらない。ユーラシア大陸もなければ、アメリカ大陸も、アフリカ大陸も、オーストラリア大陸も、南極大陸もない。何か大きな大陸がふたつあるが、見たことのない形をしていて、ほとんどが薄い緑色で覆われている。そして月と間違えた星と同じように帯状のせり上がりがあり、それを埋めるように人工物らしい灰色でゴツゴツした何かが集まっている。その灰色の帯を成した円環は、海やふたつ大陸を跨いでいるので相当に大きな建造物らしい。

 それから程なくして彼女は、自分がその星の草原らしい大地の真ん中へ落下していると気づく。はじめは釣り上げられている気分だったのにいつのまにか真っ逆さまに落下していたのだ。ただそう気付いたものの、彼女は止める術を知らず「待って待って」と騒ぐが関の山。あっという間に地面で結局、彼女は目を塞ぐくらいしかできなかった。

 落ちた、と思って次に目を開けると辺りは白く、そうかと思ったら直ぐに暗くなり、そして恐らく、暗がりに入ってすぐに止められた。衝撃が無かったので止められたと気づくには時間がかかった。適切な慣性がこの世界では働かないので視覚を頼りに確認せねばならない。夢の中だから何でもあり。こういうことなのだろうか。

 彼女が辺りを見渡すとどうやら星らしい煌めきがある。それはさっきまで見ていた宇宙の広がりと変わらない。

「どういうこと?」

 地球のような星を通過した可能性に気づき、彼女はゆっくりと足元の方を見る。案の定、そこには球に海と大地を収めた星があり、今度は見知った大陸を認めた。ユーラシア大陸の中ほどから西側が昼になっていた。

「突き抜けた?」

 スーパーカミオカンデの水を逃れ、まんまと地球を通り越したニュートリノというものがあったら、こんな気分なのだろうか。

「そういえばドップラー効果も起こってなかった」

「確かに」

 彼女の独り言に付き合うように男の声がする。相変わらず後ろの方から聞こえてくるものの、その姿は見えない。そしてその声は先ほどと違い途切れ途切れでなく、機械的でもなく、人らしい声色だった。

「これで戻ってきたわけでも無いんだよね」

「はい。ですが今しばらく移動をお楽しみください」

 そう言われたかと思ったら今度は、ぐっと下に引っ張られて降下が始まる。大気の抵抗など露知らず、夜に入って久しい夜空の、その下の島の、街の、大学キャンパスの、古い建物の、その部屋へ、引き寄せられた。掃除機で吸われる綿埃というものがあったらこのような気分かもしれない。彼女はそう思ったものである。

 

「また眼を開けましたが、応答はありません。複雑ですね、今回は」

 そう言ったのは小金咲という女性。深梶原の手伝いをしており、犬の主人である彼女の頭回りのメンテナンスを担っている。今日も背負ってきたカーキ色の大きなザックから黒ずくめの機械を取り出し、患者である彼女の頭だの首だのにそれを取り付け、ノートパソコンと向き合って彼女の回復作業にあたっていた。

 鯔のつまり彼女の意識は「迷走」しており、夢の世界に閉じ込められている。小金咲はそんな「迷走」の状態から正常な脳活動へ整えるべく、オンラインで接続された人工知能と共同で彼女の頭の機械を操作しているところだった。ここで言う操作とは、脳の中の機械と彼女が本来持っているそれぞれの信号の流れ方をうまく同期させ、機能的に連結させることを指している。この同期が図れていないと彼女の脳の働きだけで覚醒を維持できなくなり、大概は意味不明な夢を見続けることになる。

 命の危険を伴うシャットダウンとは違い、犬は安心した。それに今は優秀な先生が二人ついている。犬が騒いでも邪魔になるだけだ。後は果報は寝て待つみたいに、先生方に任せて待つ他ない。犬は眠ったふりをしている。

 それにしても、小金咲の顔とパソコンの画面が今日も随分と近い。赤縁眼鏡にグラフだのスクリプトのコンソール画面だのが写り込んで綺麗な瞳は隠れている。華奢な腕や腿も今は薄汚れた白衣の下。彼女が痩せ身の美人である事を知るには、眼鏡や白衣を外す必要があるけれど当面、それはなさそうだ。

「信号を見る限り安定してそうなのだけど、起きないな」

 そう語ったのは深梶原。彼女は窓の手前に設けられた落下防止の手摺りに凭れて腕を組み、ため息をついた。

「視覚や聴覚の高次系、ですね。基本経路からのずれが、問題だからですね」

「楽しい夢だといいわんね」と犬。伏せて目を閉じたまま語る。

「テテレテスの分析だとキャンパスにいるともあった。それは楽しんでると言えるのかな?」と小金咲。

「転調はそれなりに激しいな。基幹系の推定が間に合っていないのか」

 深梶原が画面を覗き込みながら言う。

「どうもうまく弾き出せていない部分があります。ここ最近は読めているみたいですが、該当の数分間は完璧に外しました」

 小金咲は体にメスを入れられないが、医療機器の、特に脳に関する機器に明るい。今こうして操作している機械も、彼女が医療機器メーカで開発したものを独自に組み立て直したものだったりする。精度を上げるためセンサーを増やしたり、増えたセンサー分の電力を増やすため回路の部品を取り替えたり、センサー数の変更に対応するため解析プログラムを修正したりした。精密工学を専攻し、医療機器メーカーの研究所勤めだった彼女の手並みであれば、そのくらい大したことはなかった。

「脳幹の信号からだと問題はなさそう」深梶原が小金咲の背後に回り、画面を覗き込む。

「そうですね。問題なしです。念のために心配維持装置は置いておくべきとは思いますが、考えすぎってことになると思われます。テテレテスもそう結論づけました」

「テテレテス様さまだな」

「はい。彼らは今や、自ら用意したモデルでシミュレーションもしてしまうんです。こういう調整作業もお手の物です。私が配置するセンサーにも最近はコメントできるようになってきました。私も数週間でお役御免かもしれません。で、気になるのはこれです。この交点が記憶を形成するときに現れる活動域でこちらが安全機構からの応酬反応と思しきものです。先ほども改竄が起こらないようテテレテスに阻害活動をお願いしました」

「しかしながらどうして彼女の脳はいくつも転調してゆくのだろう。まるで多重人格のような反応なのに」と深梶原。

「それは今に始まった事ではないですけどね」と小金咲。

「いや、この状態に嵌ってしまうと研究素材という意味では価値が薄い」

 

 彼女が戻ってきた場所は、あの何もない記念資料室。もふもふの絨毯が敷かれ、落ち着いた照明の、家具の無い、だだっ広い部屋だった。現実ではガラスケースに学校の記念品ばかりが置かれた部屋にあたるけれど、今のここにはそれがない。そういえば月みたいな場所へ彼女を瞬間移動させたあの黒い角柱もない。初めてそこを訪れた時のように絨毯が敷かれ、誰を迎えるために点けられたか知れない灯りが、最初に訪れた時と変わらぬまま煌々としている。絨毯は唐草模様でなかった気がするけれど、今は唐草だ。藍らしい背景に薄い色で編み込まれた細かい模様があちこちでくるくるしている。

 絨毯の踏み心地は変わらない。彼女はそれを足踏みしながら辺りを見渡し、白猫の言葉を思い出していた。

「誰かにここに来るよう呼ばれた」と白猫は言っていた。

 あの月らしい星で会ったあの子がその「誰か」でなかったとするなら、あの子は何だったのだろう。確かに不自然に切り替わってあの場所に連れて行かれた。空間が破れたようになって如何にも、無理矢理だった。それは予期されず割り込まれたようだ。そしてここへ連れ戻した影は「まずは戻します」と言った。それはあの月らしい場所とあの子が「間違いだった」のように聞こえる。

 結局のところここへ呼び出した「誰か」は、いつ現れるのだろう。彼女は「わからない」と言いつつ頭を振り、やがて月らしいあの場所で、あの子がやったようにぐるぐると巡り始めた。あの黒い角柱が現れた時みたく何か変化があるかもしれない。そんな期待もあった。

 しばらく時間が経った。

 巡ったところで部屋の様子が変わるわけもなく、彼女は結婚式の披露宴会場のような、高官たちの会議室のような部屋をぼんやり見渡すことになった。そして何度も回っているうち、あまりに変わらぬこの部屋は、そもそも単なる「絵」なんだろうなと思った。

 この空間は彼女自身の記憶を再現させた何かで、それは今、脳の中で起こっており、実際には「起こっていない」。差し詰めこの再現と認識を併せて「再覚」とでも名付けておこうか。光っているように見える照明器具は光っていないし、もふもふのように感じている絨毯は踏んでいない。そう感じた時の記憶を都合よく組み合わせて再現しているに過ぎない。

 夢の中だから何でもあり。けれど記憶に縛られている。

 それは、たくさんあるデジタルカメラの画像を切り貼りして別の一枚の画像にすることに似ているかもしれない。けれどもデジタルカメラの画像を見る時、その画像は自ら光っており、「絵である事」と「映す事」の両方が混ざっているからちょっと違う。デジタルカメラの画像が「絵」である意味は、それが固定した数字の羅列という部分に着目する所にある。その数値の羅列は「ある機械」あるいは「ある解釈」を使えば、元の風景を再現できるという意味で固定化されている。ここで言う「絵」とは、このように固定化されている部分に着目して言っている。

 一方で、自然は固定化に対し「否定的」である。例えば光速度不変の原理は光の停止を否定し、熱力学では熱平衡に至るまで系が運動し続けることを表し、仮に平衡状態に達したとしても系は、絶えず動き続けている。また、地面に転がっている重そうな石であっても、分子や原子を覗き込むとある平衡状態をつくっており完全に止まってはいない。

 こうして停止に潔癖な自然だけれど、一方で変わりゆく現実を効果的に効率的に記録にとどめておこうと頑張っているものもこの世界にはあってそれが「絵」として現れている、と彼女は考える。そしてそれは、メディアであったり、言葉であったり、学問の成果に通じているのだろうと考える。

 例えば物理学は、刻一刻と変化する現実を効果的に、効率的に、表現するにはどうしたらいいのか、試行錯誤を繰り返して成長してきた。曖昧さの少ない記号で、しかも簡潔に表すことに、学者たちは力を注いできた。もし限られた記号列で目的の表現を達成できたらそれは、一意になり、絵となる。

 それから文学。文学も表現すると言う意味では、似たような事をしている。人の複雑な心の内を、ある一つの文脈に収めて、絵のように固めて伝えようとしている。描き方はいろいろあろうが、伝えるためには、効率的で効果的な文を書く必要がある。科学の場合は効率的イコール効果的という側面がありそうだが、文学は効率的イコール効果的では無いかもしれない。効率的に人に伝えるため、読者の経験を想定し、それを借景とした舞台づくりをするけれど、人によって経験が異なるので、作り込みで偏りが生まれ、該当者が減り、効果が薄れてしまうと考えられる。

 ところでこの「絵」というものは、最近になって「情報」と呼んでいるそれがもっとも近い存在では無いかと、彼女は感じていた。実際、情報と紐づけて意識が生じる原因に迫ろうとする試みが、昔からされている。

 いずれにせよこうした「変わり続ける必然性」と「留めておきたい衝動」が互いにぶつかっている中で、「絵」が現れ、それを切り貼りして「再覚」されたのがこの夢である。

 この「再覚」はこの世界で唯一無二なんだろう。完全に孤立した存在なんだろう。

 ノックがあった気がした。

 彼女は足を止めて音がした扉の方を見るが、何も起こらない。それからしばらく間があって再び、ノックがあった。彼女は「どうぞ」と大きな声で応え、その人物の入場を待った。

 扉が開くと簡易宇宙服を着た人が現れる。

「また宇宙服」と思わず、声に出てしまった。

 胸の形から察するに男性だろう。その人物は彼女の推理を知ってかしらずか、答合わせでもするようにヘルメットを外しにかかる。首回りの固定ロックを外して背中に垂らし、落とした。

 男だった。白髪の短髪で、肌や皺からしてそれなりに歳だろう。優しい目つきや面立ちで、目尻に何本も皺がある。背丈は彼女より少し高めくらいで、体格は標準体型の原器のような体つき。腰はしゃんとしており、健康的な印象である。

「お待たせしてすみません」

 その声はかの背後霊の声だった。

「私をここへ連れてくるように猫に命じたのも、月みたいな星から引き戻したのも、あなたですか」

 彼女の言葉に彼は、爽やかな笑とともにこう答えた。

「いかにも。まずは安全な場所へ連れて来ようと猫の手を借りたんです」

 彼女は明るい顔で「ああ」というような表情で「猫の手とは」と言いながら微笑んだ。

「それにしてもどうして宇宙服を?」

「ここが宇宙だからです」

「ここは地球です、よね。ああ、変な蛍光灯みたいな輪っかがあった気がしましたから、そうでもないのかもしれませんが」

「まあ細かい話は置いておいて、人それぞれの宇宙がありましてね。その中心へ辿り着こうとするとそれはもう、宇宙旅行なのです。深く、過酷で、呼吸もままならない。呼吸器をつけていても息苦しく感じることさえあります。人一人の心を変えることが宇宙法則を変えるように難しいとはよく言ったものです」

 彼は周りを見渡してそう言った。それには彼女も「そうかもしれませんね」と言う他なかった。

「立ち話もなんですから座りませんか。気分的な問題ですけれど」と男。

「ええ、ですがここにはテーブルも椅子もありません。隣の部屋に行ってみたら、あるいは」

「いいえ、それには及びません。ここはあなたの宇宙ですからある程度、あなたの意志で融通を利かせられるはずです。あなたも先ほど、そんな事を考えていました。例えば記憶と想像力を駆使して、この部屋に合いそうなテーブルや椅子がここにあるよう工作してくださいませんか」

「工作、ですか」

「はい」

 ひとまず目を瞑って思い浮かべてみる。

 調度の表面は暗め。古い木製で、支えの部品に角張った彫刻を施し、端にあたる部分は丸日を帯びて重装。テーブルは円卓。椅子は青い革張りの背もたれが付いたふたつ。向かい合うように。できれば、空腹を誤魔化す甘い食べ物と口直しの抹茶や水が添えられていると尚良し。

「お見事です。しかもおやつまで」

 彼女の背後に現れたらしく男性が、顔を綻ばせて彼女の後方を指差している。振り返る彼女は「本当だ」と言って破顔一笑だった。

 

 アフタヌーティースタンドには灰色の陶器の平皿に和菓子が載っている。部屋の明かりが暗く橙掛かっているので実際よりくすんで見えているだろう。三段あるうちの下段には豆かんの小鉢と練り羊羹と豆大福、中段には椿と鶴と富士を模った上菓子、上段には落雁と艶干し錦玉の干菓子が乗っている。椅子の前には焼き物のコーヒーカップに泡立った抹茶らしいそれが淹れてある。湯気は立っていない。無数の細い泡が悉く、湯気という湯気を吸い尽くしてしまう。

「和菓子ですか」と男が宇宙服のまま椅子を引いて腰掛ける。

「はい。和菓子好きなので。遠慮なくどうぞ、と言いますか、私のものでもないんですけれど」と言って彼女は、男と向かいの椅子に腰掛ける。

「いや、これは紛れもなくあなたのものです。あなたが先ほどまで考えていたように、ここはあなたの記憶から再構成された世界ですから。私のこの姿でさえ、あなたの記憶を借りて再構成しているに過ぎません」

「そうなのね。複雑な気分」

「では私は豆大福から」

 彼は手袋をしたまま指でつまんで豆大福を取り上げ、半分ほど食い千切る。餅がよく伸びた。

「ふむ。なかなか」

 柔らかい餅の中にほんのり甘いこしあんのなめらかな舌触り、時々訪れる歯ごたえある黒豆のアクセント。「面白い」と彼は言う。そしてもぐもぐとして飲み込むと、抹茶を少し啜り、話を続けた。

「そうそう。面白がってばかりもいられないのです。早く事を済ませてあなたを戻さねば」

「お名前を聞いても良いでしょうか」

「確かに。こうして面と向かって話すのは初めてでした」と男性。背筋を伸ばし「私はテテレテスです。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

「テテレテスって、あの?」

「はい。あのテテレテスです」

「随分変わった姿。もっと若くて格好良い男性でもいい気がするのですが、どうして年配の男性を?」

「私も憧れというものがあって。要するに私を作った人物なのですが、その方の姿に似せております」

「あなたを作った人物って、そんな姿の人だったの」

「はい。名前は太陽系の系と一二三の二を合わせ、系二(けいじ)と言いました」

「それって、もしかしてシステムザセカンドの事では?」

「そうとも言います」

「人工知能よね」

「はい」

「そう。と言いいますか、テテレテスが私に介入しているということは私に何か起こったという事?」

「その通りです。整流化の作業を行っています。厳密に言いますと、今この瞬間は行っているふりをしている、ということですが」

「昨日は切断で、今日は迷走。やっぱり参ってるな、私の頭の」

「取り替えが必要かもしれ無いと、少し前にチームへご提案しました」

「そうなると近々手術か。憂鬱だな。って、本当であれば整流化で四苦八苦しているはずのテテレテスがこうして私に会いに来たってことは、何かわけありってことよね?」

「ご明察。これは記憶への介在ですから本来であれば規則違反です」と彼は残りの半分の大福を口に入れる。

「決して甘くはないわけね」

「いや、甘いです。ではなく、余裕なんですね。もっと荒れるのかと推測しました」

「どうして?」

「機械ごときの私がこうしてあなたに侵入しているわけですから」

「そう、ですね。でもこうやって起こってしまったらなんとも思わないわけで」

「そうなると、宇宙服を着ている私が馬鹿みたいです」

「どうして?いや、今はどうでも良くてそれで、わけとは何でしょう」

「はい。順を追って説明しましょう」

「お願いします」

 彼女も豆大福に竹串を刺して小皿に乗せ、そのまま半分に割って刺し、口に入れる。大福にまぶされた粉っぽさといい、餅が歯に纏わり付く感じといい、豆の皮と身のザラザラ感といい、みずみずしい餡子の舌触りといい、緻密な味わい。とても夢の中とは思えない。

 ところで、テテレテスがこれを食べて美味しいと言ったのは、彼自身が体験しているからではなく、彼女の経験を利用してテテレテスが「再計算」して言っている。テテレテスは今までの観測結果と今の情報を掛け合わせて追体験相当を「計算し」この世界を再構成しているのだ。

 テテレテスは彼女の経験を借りて自らの経験のように語っているわけである。彼女にとってそれは気持ちの良い話ではないけれど、テテレテスは数値として捉えているに過ぎない点が、救いといえば救いである。

「私が入り込んでいる事はやはり不快ですよね」

 彼女の思考はこの瞬間もテテレテスに捕捉されている。彼女の思考と呼応するようにテテレテスはそう言った。

「そうですね。でも気にしないでください。私の脳がおかしいですから」

 テテレテスはそれを悲しみ六十六パーセント、厭味三十三パーセント、不明一パーセントと計算する。

 夢の中で「閉口したとしても」すべて読み取られてしまうのだから仕方ない。彼女はため息交じりに首を振り「いいの続けて」と一言。

「恐れ入ります」とテテレテス。彼は言葉を止め、しばらく彼女の瞳を見て口を開く。

「この数ヶ月で貰い受けたデータに、先ほど会った女の子を見つけました」

「あの月みたいなところで会った?」

「はい。それにしても、月だったのですか。残念ながら私にはほとんどがわかりませんでした。一瞬だけ女の子を捉えることができて気づくことができたのです」

「で、どういうことなの」

「はい、私たち人工知能は機会があれば他の人工知能のデータを貰います。ある人工知能の学習内容を異なる別の網構造に反映させる作業は簡単ではないのですが、それを専門に行うデーターセンターがありまして、最近は比較的簡単にそれが行えるようになってきました。これは人工知能の、人工知能による、人工知能のコミュニティでは今や挨拶代わりに行われています」

「そうなのね。学習した結果なんて全く同じ構造をした人工知能にしか転用できないと思っていた」

「基本形からの違いを、距離に換算してそれを物理構造と対比させつつ統合します。正答率は未定なので、その統合作業も当面は確率的に扱います」

「難しそうな話だからそれ以上の解説はいいとして、肝心な話を続けてください」

 彼女はそう言って羊羹を取り、半分にしてこれを口に放り込む。ざらつきからして「蒸し」かもしれない。甘みは抑えてあった。というか、そもそもこの羊羹を想像したのは彼女自身である。

「とにかく、他の人工知能の知識や学習結果や参照する既成事実や単語をデータとして取り込む事があるのですが、二年前に貰い受けたデータに、貴方にまつわる記憶の相当量が含まれていました。この迷走で、普段は賦活させない領域を貴方は使っていたのですがそこで、私が貰い受けたデータベースと符合する人物、つまりさっきの女の子を見つけました」

「どんな人工知能だったの、その、貰い受けたというのは」

「月基地のコミュニティに属していました。アンドロイド型で、ルナロイドフィフティーンと呼ばれていました。ちなみにこの記憶の存在についてはまだ先生方に報告していません。くれぐれも内密にお願いします」

「何故私が先?」

「見つかったものはあなた名義のアルバムでもあるからです。プライベートな情報は本人の了解を得ないと」

「ちょっと待って。今、名儀って言った」

「はい。言いました」

「私の名前があるってこと?」

「お答えできません」

「私の名義があると言っておきながら、お答えできません、なの?」

 彼女はあんみつの寒天をすくい上げたが、戻した。

「申し訳ありません」

「自分の名前を自分で聞き出せないなんて」

「ご理解ください」

「ま、今更だからいいか。話を続け、続けてください」

「案外あっさりですね。続けます。あの子は月に住んでいました。名前はカプリス、ドットエネル。カプリスは月の究施設で家族と暮らしていました。二年ほど滞在したところで事故に巻き込まれ、それ以来行方不明です」

「なるほど。二年。そんなに長期滞在できたんだ。当時は。それでどんな事故だったの」

「はい、それは後ほど。今は要点だけ。あまり長く話していると怪しまれます」

「そうなのね」

「もし目覚めたらなんらかの形でテテレテスを訪ねてください。あなたのアカウントでログインしていただければこれらのデータにアクセス可能です。もう少し詳しい話をしましょう。そうですね、合言葉を決めておきましょうか。お互いがこの場で約束した証であり、手形のようなものです」

「手形か。なんだかデジャブだな。カプリスちゃんもそんなこと言ってた」

「そうなんですね」

「何れにしてもわかりやすいほうが良いから、三日月で、艶干し錦玉と答える、でどう?ここにいた記憶をお互い共有するためのキーアイテム」

 彼女はそう言って一番上の皿に乗っていた黄色い三日月の形をした干菓子を取り上げる。

「では私が、三日月と申し上げたら、艶干し錦玉とお答えください」

「わかった」

「これでお別れの準備ができました。せっかくですから最後に、私はその三日月を頂きましょう」

 男は三日月の干菓子を取り上げ、しばらく観察したのち、口に放り込む。

 もしそれが厳密に再現できてるのなら、表面はカリッとして中身はさらりと砕けてとろけているだろう。

 様々な尺度を数値として並べてとは思うが、男は何度か頷いて話を続けた。

「それからもうひとつ申し上げておきますと、目覚める時は……」とそこまで言って突然、目の前のテーブルがまるで水面のように揺らめいてスタンドやカップを沈めてしまう。

 辺りは闇へ落ち、男の姿も、部屋の明かりも、絨毯も、消えた。彼女は何が起こったのかわからず手足を縮めることくらいしかできない。

 目の前に残っているテーブルの奥から、つまり水面の奥から、ぼんやり青白い光が浮かんでくる。どうやらそれは人の頭のようだ。濡れた長い髪をたっぷり被った頭が、青白いわずかな光を帯びて水面を揺らさないようゆっくり出てくる。序でに二本の細くて青白い腕も伸びてきた。それはテーブルの淵を掴んだかと思うとその裸体を持ち上げて全てを、彼女に差し出してくる。

 大量の水がその女性から滴りながらも闇に落ち切らず机へと吸い寄せられ、戻っていく。彼女は迫り来るその女性の顔を見て彼女自身だと気づき、額に冷たさを覚えた。彼女の額が、自分自身の額が、触れたのだ。

 

 彼女は目を開けた。光はない。

 そういえば頭に何かが取り付けられている。こめかみ辺りに圧力もある。恐らく装置が取り付けられているのだろう。

「先生、起きました。これ、外してくれませんか」と彼女は掠れた声で言った。久しぶりに動かしたせいか、口も重かった。その否応ない圧力や身体の不自由さに、彼女は現実に戻ってきたのだと確信した。

「ようやく」と聞き覚えのある女性の声がする。小金咲先生だ。先生は「外すから待って」と言い、こめかみあたりに締まっていたそれを緩め、頭を覆っていた物体を外した。彼女の視界が開けて照明の眩しさが眼底を突く。これだけ電光が勝っているとなるとまだ夜は深いのだろう。

「何時間寝ていましたか」

「一時間くらいかな。犬君が異常に気付いてくれて、深梶尾先生が私を呼んでくれた。帰る直前だったからもう少し遅れたらもっとややこしくなっていたかもしれない」

「引き止めてしまってすみません」

「気に病む事はない。私は貴重なサンプルが取れて喜んでいたところだ」

 小金咲は「もう少し待ったら何が起こったのか興味があった」とでも言いたそうな表情で彼女を覗き込んだ。

「複雑な気分です」

「ご飯も食べずによく寝れるものだと犬と話していたとき急に計測値がおかしくなって、小金咲先生を呼んだ」

 窓の方を見ると深梶原が腕を組んでいる。そして「迷走の前兆っぽくはなかった」と言った。

「はっきりした夢を見ていたようだけれど、どうだろう。こちらで控えたデータとどれほど合っているか興味があるから、差し支えない範囲でいいので、内容を教えてくれないか」

 小金咲がそう言った。

「時間を置いてからでも良いだろう」と深梶原が口を挟む。それに対して彼女は「いいえ、大丈夫です」と言って話を始めた。

「ここから起きて廊下に出ました。白猫が出てきて、私を資料館へ連れて行きます。キャンパスの真ん中にあるあの建物です。その二階の展示室に行って、学校の歴史なんかを集めた場所ですが、そこは今のようにガラスケースばかりでなく、格式高いホテルの結婚式披露宴会場のように立派で、落ち着いた感じになっていました。でも部屋の中はすっからかんなんですけどね。で、そこで待っていると突然場面が変わって、月に、いや、月みたいな場所に瞬間移動して、小さい女の子に会いました。けれどもそこからすぐに引き戻されて、まるで月から地球に戻るみたいに宇宙を飛んで、再び資料館の部屋に。そして目が覚めました」

「うーん。月のような場面や女の子は抽出できていない。その他は大体あっている」

 口に出さなくとも言葉が読み取られてしまうくらいの精度だから、テテレテスとの会話も分析されている筈。それなのに先生の口からそれが出なかったと言うことは、テテレテスが報告しなかったということだろう。

 彼女は「そうですか」と言いながら何気に犬の方を見る。犬には彼女の緊張が「伝わっている」かもしれないけれど、犬は何食わぬ顔をしていた。えーい、そんな顔で見るなと彼女は言いたかった。

 犬は「どうしたわん」と言わんばかりに首を傾げている。

「ことごとく分析に失敗している時間帯を詳しく観たいところですね」と小金咲は、深梶原に画面を見せて話している。

「そうだな。引き続きテテレテスにでも頼むとして、我々はこの後はどうしようか。彼女についていたほうがよさそうかな」と深梶原が彼女を見る。

「私はもう眠くはないので起きているつもりです。何かあれば犬が知らせてくれます」

 迷走は眠っている延長で起こる。少なくとも起きて入れば安心なはず。彼女はそう考えた。

「犬は寝るわんよ」と大欠伸をする犬。

 そうしてしばらく見つめ合う犬と女の姿を見て「そうだな。いつ落ちてもいいようにこれを被っていてもらえば安心なのだけれど」と言って小金咲がザックを漁って簡易版のヘッドセットを取り出す。それを装着すれば脳内の機械との通信幅が広がってより詳細に監視ができ、異常があってもすぐに発見できるというわけだ。

 確かに異常を見逃さないだろうが、人格権を放棄するがごとく思考がだだ漏れになるので今は避けたい。テテレテスが仲介して誤魔化しているとはいえ、いつ先生方に見つかってしまうかわからない。せめてテテレテスから有力な情報を引き出すまでは慎重に行動したほうがいいだろう。彼女はそう考えた。

「今は遠慮しときます。ちょっと頭が重くって」

 深梶原と小金咲が互いに顔を見合わせ、深梶原が「犬が見張ってくれれば良いが」と犬を見ている。

 犬は「わかったわん。主人が寝ているときは起きているようにするわん」と。

「寝るときにつけておいてくれればいいから」

 小金咲はそう言ってヘッドセットをベッド脇のワゴンの上に置いた。

「わかりました」

 それから、あれこれ心配するよりテテレテスに会って直ぐに聞き出すべき。彼女はそうとも考えていた。

「小金咲先生、気晴らしに散歩とは思ったのですが、ついでにテテレテスに会ってみたいと思ってます。テテレテスは計算機センターにいましたよね。計算機センターに行けば会えますか?」

「これまた唐突ね。今からよね」

 こんな遅くに出かけるのは、幾ら何でも不自然だったか。

「はい。寝ないためにも」

「犬は眠たいわん」

「あなたは留守番していてもいいわよ」

 犬は先生方の表情を伺っている。先生は二人とも肩をすくめるだけだ。

「うー。ついていくわん。またシャットダウンにでもなったら大変わん」

「犬君がついて行くなら監視は不要かな。で、テテレテスの本体は計算機センターの中だけど、あそこは立ち入り禁止で、あ、会話するだけならとっておきの場所があるか」

「とっておきの場所?」

「そう。資料館の元司書室がアンドロイド専用の部屋になっている。超本格的な人型の端末はこの研究施設では彼が初めてだったから名誉教授って肩書きで展示中。尋ねたら紳士のように迎えてくれるでしょう。あの建物も二十四時間入退室可能だったから、行けるんじゃないかな。私は夜に行った事ないけれど」

「年季の入った建物だから肝試しにもなる」と深梶原が付け加える。

「確かに」

 そうして深梶原と小金咲は静かに笑いあった。

「テテレテスの端末ガイドの一覧はキャンパスの案内ページからも見れるわん。アンドロイド型で稼働中になっているわん」

 犬は腰をあげて、全身を震わせた。

「犬君の言うようにあの部屋のアンドロイドは動きっぱなし。だけど校内案内向けに制限されているから、大した内容は聞き出せないかも。もし深い話がしたいなら、あなたの専用のアカウントを発行するけど。認証の情報はすでにあるから連携させるだけだし」

「お願いします。ってアンドロイド型の端末なのに認証するってどいう事ですか?」

「そうね」と言いながら小金咲はノートパソコンのキーボードを叩いて何かを打ち込み、視線は彼女へ向けている。「行ってみればわかるよ」

「ただ、あれだな」と深梶尾が言って続ける。「実験に関する資料は研究者向けの関係者以外非公開だから、質問しても彼は答えられない。許可というか、権限を与えておく必要がある。プロジェクト長の承認が必要だから、明日になっちゃうけど」

「興味はありますが今日はそんな話はしないつもりです」

「そうか」

「できた。はい、これでログインして公開可能なあなた向けの知識は研究関連以外のデータにアクセスできるようになった」

 小金咲がキーを叩き終えて言った。

「ありがとうございます」

 

 先生方は「仮眠室に行くから何かあったら起こしてくれ」と犬に告げて部屋を出て行った。件のヘッドセットはベッド脇のワゴンの上に置いたままだ。

 彼女はパジャマから白いティーシャツと灰色のテーパードパンツに着替え、犬を連れて部屋を出た。研究室で何日間も過ごす事もあったので、数日間分の着替えが貯めてあった。

 現に真夜中のキャンパスは静かで、人通りはまるでなかった。終電も過ぎた時刻なので、当然といえば当然の光景である。

「灯りがついてる」

 彼女が通りかかった校舎を見上げてそう言った。

「何時ものことわん」

 大学が不夜城であることは今更不思議がることでもない。犬はそんな彼女の心情を不審に思って話しかけてみた。

「どうして、テテレテスと会話したくなったわん?」

「聞いておきたい事があって」

「どんなことわん」

「月に行っていた時に三歳から五歳くらいの女の子に会った記憶ってある?」

 上空を見上げると、半分よりはやや満ちた月があった。

「うん。ちゃんと月も出ている」と彼女。

 犬は何の話か見当もつかない。

「そんな小さな女の子に会った記憶はないわん。でもそれとどういう関係があるわん」

「まあね。あ、そうだ。犬はテテレテスとネット越しに話せたりするの?」

「できないわん。でも犬は外部との交信を定期的行っているわん。そのデータがテテレテスの解析対象になっている可能性はあるわん」

「そうだとすると間接的に私の行動がテテレテスに渡っているということだね」

「そうかもわん。どうしてそんなこと聞くわん?」

「ちょっとね」

 例の記念資料館が見えてきた。

 資料館の玄関は、夢で見たような厳かな照明は点いていない。玄関手前の空き地にダイオードの外灯が一本立っていて、それが暗くなった資料館の入り口付近を白い光でぼんやりと照らしている。玄関の中は真っ暗で、どう見たって閉館しているようにしか見えないが、犬の確信に従って入り口横に設けられたカードリーダーに学生証を翳すと、待ってましたと言わんばかりに玄関の明かりが灯り、シリンダーを回す音を辺りに響かせて開錠させた。

「まるで違うのだけれど」

 彼女は赤い絨毯を上って行った白猫の姿を思い浮かべながら、肌色のピータイルが貼られた現実の階段を登り、肌色の長尺シートが貼られた現実の廊下を進む。

「前にも来たことあるわん?」

「ある、かな。その時は資料館の資料が目的だったけれど」

 その部屋の名札には「資料館長室」とあった。場所は「記念資料室」よりもさらに奥だった。

「こんな部屋あったんだ」と彼女、夢の中であの男がしたようにノックする。

 待っても返事がない。再び叩き応答を伺うが、これまた待っても返事がない。よくよく考えたら相手は古いアンドロイド。こうした応対ができない骨董かもしれない。

「入ってみればいいわん」

 犬に言われるまま彼女がドアノブを握ると滑らかに回る。彼女はそっと扉を押して開けてみた。

 すると扉の隙間からぬーっと背広姿の紳士らしい影が滑らかに現れる。

「わっ」

 と彼女は思わず悲鳴をあげた。犬は危険と察してその男に向かって吠え、ふたりの間に割って入った。

「では早速。みかづき」とその紳士。

 その紳士は犬の攻撃に臆することなく彼女の腕を取って掌を合わせ、彼女の瞳を見つめて止まった。紳士は若くて格好が良い。機械仕掛けであることを忘れさせるしなやかな動きと表情に、彼女はたじろいだ。

「つやぼしきんぎょく」と、彼女は目を逸らしながら答えた。

 犬は紳士の太ももにかぶりついたようだが「硬くて歯が立たないわん」と言っている。

 男は「ありがとうございます」と言って笑顔を見せ、数歩引いて、手のひらを放した。「どうぞ」と言って入室を促すと部屋に明かりが灯り、辺りが明るくなった。彼女はゆっくりと部屋の中に入って行く。部屋は少し埃っぽかった。

 資料館長室には灰色の事務机と灰色の背凭れの付いた椅子があり、そのかれの席と向かい合うように黒い合成樹脂で覆われた横長のソファーが置かれている。彼の座る椅子は充電器になっているらしく、椅子に向かって部屋の隅から黒い電源コードが蛇行しながら壁の方に向かっていた。それ以外は何も置かれていない、簡素な部屋だった。

 床は言わずと知れたピータイル。壁はモルタルに肌色のペンキ。照明は白い発光ダイオード。夢でてきたような繊細で柔らかい雰囲気はなく、固く鋭い感じだ。

 どのような人がここを訪れて利用するのかわからないが、このような施設があるという噂も聞いたことがないので、あまり利用されていないのかもしれない。

「ようこそ当校の資料館の館長室へ。私は館長の語部草子(かたりべそうし)と申します」

 彼は数歩引いて姿勢を正し、頭を下げた。

「茶番はやめましょう。テテレテスさん」

「はて何のことでしょう。私はここで勤めている語部でしかありません」

「テテレテスの端末を使うつもりでここに来たの。テテレテスにログインさせてもらえる」

「それには及びません。先ほどあなたの生体情報を確認させていただき、既にログインしております」

「そういう事。妙な演出をするので痴漢かと思いました」

「普段は事前にお断りして掌を拝借したり瞳を調べたりさせていただきますが、今日は突然やってみました。いかが思われましたか」

「ごく親しい人にああするならともかく、初対面であれはセクハラと訴えられて文句も言えないでしょう。ましてやアンドロイドがセクハラで訴えられたとなったら、セカンドラッディズムとか騒いでる人達がこれ見よがしに打ち壊し政策を正当化してくるのではないですか」

「これは手厳しい。私にはいやらしい気持ちなど微塵もございませのに」

「姿と形からの先入観というものがどうしてもある。テテレテスくらいならそのぐらいの類推は心得ているのではないかと。で、それは水に流すとして、私は本題に入りたい」

「わかりました。もう少しお待ちください。今準備をしておりますので」

 彼は踵を返して席に戻ると、自らも椅子に腰掛けながら「座ってください」と目前のソファーを手のひらで差した。彼女はソファーの誇りをはたき落として「座って待てばいいのね」と言ってゆっくり座った。

「はい、しばしお待ちを」と彼は言ったきり。目を閉じて黙ってしまう。彼は椅子に凭れ、机に肘を置き、指を絡めて両掌を組んで瞑想している。

「何しているわん」と犬が彼女の横に座って聞いている。

「さあ」

 しばらく待って彼は「お待たせしました」と言って目を開けた。

 口内や網膜が発光している。それは演出なのかもしれないが、見た目が人間だけに違和感がある。

「何をしてたわん」

「誰かに傍受されても内容が悟られないようひと工夫したのです」

「あなたは人に黙って何かをしようとしている。それは良い事なのかしら」

 彼女は語部草子を睨む。

「私は規則に従って動いているにすぎません。一言で従うと言いましても、私は様々な人から指示されます。つまり従うべき人にはいろいろおります」

「ということはつまり、こうして先生に黙って私と密談しようとしたのも、もっと優先度の高い人からの指示だっていうこと?」

「ご明察」