確率的姉 | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

 主人には行きつけのカフェがある。名は閑雅庵と言い、通学路の途中に建っていた。古くて大きな日本家屋を改築し、畳の部屋を区切って客間を設け、欄間や家具に洋式を取り入れてカフェらしさへ寄せていた。靴を脱いで寛げる所がいいと、近所でも中々の評判である。香を焚いたわけでもないのに香る、熟成された家屋の木柱や壁、畳の匂いがいい、という声もある。もし庭の見える部屋が空いていたのなら幸運だろう。場所代は張るけれど、季節ごとに変わる木々をぼんやり見て過ごす時間は至福の時となる。

 とはいえ主人が戻る時間は客間の席が空いていないので家へと上がらせてもらい、二階の子供部屋で過ごす事になる。閑雅庵カフェのオーナーは中年の夫婦で、里親の両親とも昔から仲が良く、そのよしみから主人が学校に行っている間、犬は居候し、主人は時間が欲しい時などで二階の子供部屋に上がらせてもらっていた。その代わりと言っては何であるが、犬は接客のアルバイトをし、主人は閑雅家の一人息子の勉強を見ていた。犬が注文を受けに来るという謳い文句は覿面らしく、閑雅夫妻からもお褒めの言葉を頂いている。それから閑雅夫妻の一人息子、閑雅未数(かんがみかず)の成績が上位である点も、主人は褒められていた。主人は未数が愛おしくて仕方なく、どうしても教育に熱が入ってしまうらしい。

 犬も主人の高校へ同行できれば良いが、他の生徒の気が散る事もあり主人の調子が悪いとき以外は学校へ行かない。そして同行しない朝は、この閑雅庵で犬は捨て置かれる。そうすると犬は、未数が帰ってくるまで接客に勤しみ、時々頂く休憩時間に庭先の縁側で眠る振りをして犬専用回線でネットへダイブする。それは勉学のためだ。最近は専門教科を始めた所で特に、世界史を気に入っている。主人の大学進学をサポートする目的で始めた犬であったが、ゆくゆくは犬も大学に行って研究してみたいと思い始めた。取り分け、人間と犬の関わり合いの歴史に関心があった。

 閑雅庵からお暇する時、それは主人が迎えに来る時だが、その前にまず未数が帰って来る。主人は高校生だが、未数は小学一年とあって帰りが早い。犬は未数が帰ってきたらアルバイトを切り上げ、未数の面倒を見るため未数についていく。もし未数が友達を連れてきたら近くの公園でキャッチボールやサッカーなどを眺め、友達が来なかった時は部屋に上がって一緒に宿題をした。

 公園で遊ぶというは実に、楽しい。犬は時々混ぜてもらうのだけれど、普段使っていない筋肉が遠吠えを上げているような心地になる。主人も頭の事を気にせず心ゆくまで体を動かせたらどんなに楽しめただろうとつくづく思う。

 

 玄関先に置かれた古めかしい柱時計が、未数の帰宅時分を告げている。気付くと、磨りガラスの向こうに影があった。

「ただいま、犬さん」

 磨りガラスを嵌めた引き戸を開けて未数が入ってくる。閑雅庵の入り口は、閑雅家の玄関でもあった。未数は靴を脱ぎ、家族用に設けた下駄箱の内蓋を開け、自分の白いスニーカーを仕舞った。

「お帰りなさい若旦那」

 犬は頭をさげる。

「犬さんは今日も大活躍だった?」

「おかげさまで」

 犬はお客を案内するように未数の前を歩く。未数は黄色い通学帽を被り、不釣り合いなほど大きなダークグレーのランドセルを背負っている。夏服のカッターシャツが小さい。サンスペンダーも小さい半ズボンをぱんと釣り上げて懸命である。濃紺の靴下は膝下まで食らいついて離さない。

 カチカチという硬い木床に触れる犬の爪。とんとんと床と叩く未数の足。未数の足取りはいつもと変わらない。今日も存分に学校を楽しんできたのだろう。

「おかえり未数。学校はどうだった」

 客間手前のカウンターで閑雅未依(かんがみより)夫人に会う。夫人はカウンターから出てきて未数の前でしゃがみ、我が子を優しく見つめて帽子を脱がせ、ひしゃげた髪を手櫛で優しく解した。未依夫人はいつものような和装とは違い、白いカッターシャツに黒いデニムパンツ、黒いエプロンをしている。髪も漆の髪留めで束ねておらず後頭部でお団子にしていた。この建物は日本家屋だけれど、内装は随所に洋風な部材を用いており、使っている木材も暗めの物が多い。この店は和装とも洋装とも合っていた。

「家庭訪問するって。プリントもらってきた」

 未数はランドセルを背中から降ろすと、床に置いて皮カバーを開け、一枚のしわくちゃになった印刷物を取り出し、母に渡す。

「再来週の月曜日。予約席とっとく」と未依夫人は四分の一にそれを織り畳むと、立ち上がってエプロンの前のポケットに差し込んだ。

「今日はみんな塾だから外にいかない」と母を見上げる未数。

「じゃあ、おやつ、渡すから。犬さんの分も」

 未依夫人は奥の部屋に引っ込み、未数専用の小さなモンブランとミルクコーヒー、犬専用のクッキーを和食器に盛って黒い丸盆に載せ、戻ってくる。

 ロビーの隣には台所がある。ロビーからは姿が見えないけれど、そこでは未数の父、閑雅道数(みちかず)とアルバイトの笹鷹(ささたか)女史が奮闘しているに違いない。今は食事時ではないので調理が必要な注文は減っているけれど、お客は昼から入れ替わり立ち替わり続いている。洗い物も溜まっていそうだ。

「離れていいわん?」

「ええ、愛しき未数の事、お願いね」と未依夫人はウインク。

「わかったわん」

 未数はランドセルを背負って母からお盆を受け取ると、両手で確り持って「行こう」と言い、歩き出す。客間が連なる縁側を未数と犬は進み、馴染みのお客から声をかけられ応えつつ、店を後にする。縁側の流れから突き出す短い渡り廊下を行くと、目の前に二階建ての木造家屋が現れる。未数たちはそこで止まり、引き戸が自動で開くのを待った。認証は少々時間がかかる。

「早く」と未数。「開錠しました」と聞こえてくると、扉が横に引かれて開いた。

 寝る事と風呂に入る事くらいしか使わないためそれほど大きな構えではない。玄関を上がって右壁伝いの階段を上ると未数の部屋がある。世間から見たら恐らく子供部屋らしくない。十畳ほどのフローリングで、木製でお手製の広い書斎机、肘掛のついた座りやすそうな椅子、背丈の低い本棚と大きなベッドが置かれている。衣類は押入れに見立てたクローゼットに収まっていて、お陰で部屋全体がすっきりさっぱりしていた。自動掃除機が時々動いているようだけれど、今は休息中らしく部屋隅のチャージャーで沈黙している。掃除し甲斐のない部屋だとさぞや、落胆している事だろう。

 机の前の窓からは庭の全貌が見下ろせて松や楓の枝ぶりが窺える。未依夫人によるともうすぐ三本の楓が赤へと移ろいで庭全体が華やぐそうだ。主人と共にその訪れを楽しみにしている。

「今日は新しい計算ドリルが渡されて、早速宿題が出た。最後の方に掛け算がでてきてる。お姉ちゃんが教えてくれたかけ算。やっつけるの楽しみ」

 お盆を広い机に置き、ランドセルを机傍の棚へ下ろしてカバーを開け、計算ドリルの冊子とペンケースを取り出した。

「また全部終わってしまって先生を驚かせるわん?」

「それもあるかな」

 少年は机上のお盆から平皿を取って床に置いてくれる。見た目大きなクッキーのそれが、皿に乗っていた。

「僕も少し食べてみたい」

「いいわん。好きなだけ取っていくわん」

 未数は小指の大きさほどの切れ端を口に入れて、もぐもぐした。

「うーん。味と食感が合っていないけど、美味しい」

「時に、ドリルをたくさんするのはいいわん。でも片付けてしまう事が大事ではないわん。理解する事が大事わん」

「解ってる。やってて解らなくなったら教えて。でもとっくの昔に何桁でも足し引きできるようになってるから、時間の問題だと思うんだけれど」

 少年は一口でケーキを食べ終え、速攻でミルクコーヒーをごくごく飲む。ミルクコーヒーは甘くないため、そうやって口の中で甘味と混ぜて「美味しく」するらしい。何時か未数はそう説明してくれた。

「時に、犬さん」

「何わん。ん。これ美味しいわん」

 犬もクッキーを口に入れて咀嚼した。これがまた何か肉らしいものが練りこまれていて美味しいわけだが、今回はいつもと違い、オレンジ風味が混ざっている。この気遣いに感動を禁じ得ない。

「食べちゃったね」

「もう少し食べたかったわん」

「さて、犬さん」

「何わん」

「犬さんって特別だよね。他の犬と違って喋れるし」

「そうわんね」

「犬さんはどうして喋れるようになったの?」

「主人と同じような状態になって犬も病院に運ばれたわん。そしたら頭に機械を入れられて、喋れるようになったわん。いや、違うわんね。そういう能力を貰ったわん。能力を貰っただけの時は全然喋れなかったけれど、未数が教わっているみたいに主人からあれこれ教えてもらって喋れるようになったわん」

「ふーん。じゃぁお姉ちゃんが居なかったら犬さんはずっと喋れない犬だったのかな」

「そうかもわん」

 頭に機械を入れた犬が研究材料として必要だったから生かしてもらえた、とは言うまい。いずれ気づく事だろう。

「どうしてそんなこと聞くわん」

「今日帰りに犬の散歩している人がいて、飼い主が歩いていこうとするのだけれど、犬に反抗されて中々進めなかった。あの犬も喋れたら良かったのにと思って。で、どうして犬さんは喋れるようになったのか疑問に思ったから」

「そうわんね。それは特別な経緯があったわん」

「イキサツ?」

「主人と遭ったとか、事故に遭ったとか、喋れる能力を貰ったとか、そういう特別な経緯わん」

 犬は少年に過去の事故と手術について話した。少年は真摯に聞いてくれて、犬や主人の事を心配してくれた。

 そうしてしんみりした後は、犬の提案により互いに好きな事をした。少年は計算ドリルに注力し、犬はアルバイトの疲れを癒すためうつらうつらした。主人がこの部屋を訪れるまでの時間は、その甲斐あってあっという間にやってきた。

 

 秋口のその日、激しい夕立があり、主人は雨宿りを兼ねて閑雅庵を訪れた。病院へいく予定も控えていたが、雨を理由に遅れる連絡を研究所に入れ、ケーキセットを受け取って未数の部屋に上がってきた。白いポロシャツ、濃紺に水色チェックのスカートのような短パン。主人の高校は制服が義務付けられていないので軽い装いになる。学生鞄もない。代わりに使っている黒いザックは、研究所の主任から貰った復活日のプレゼント。コンバットナイフも通さない頑丈な生地らしいが、内側の荷でパンパンに膨れ張り裂けそうになっている。ザックもまさか内側から攻められようとは思ってもみなかっただろう。

 ちなみに復活日とは誕生日が不明な主人を思って研究所の人が設けた日。彼女が頭の手術後に目覚めた日を指していた。

「お邪魔しまーす」

 主人は満面の笑み。手にする盆にはコーヒーとケーキがふたつ、載っている。

「おかえりわん」

 犬は階段を叩く主人の足音で目覚めた。

「ただいま、犬よ、ちゃんと働いてたか?」

「もう子供じゃないわん」

「よろしい。で、未数の方は、やってるね」

 この少年の事だ。やるべきではないところまで進んでしまっているのだろう。誰かが止めないと彼はこの半期分の計算ドリルを平らげてしまう。

「どれどれ」

 少年は集中を解いてペンを置く。

「お姉ちゃん。傘忘れたの?」

 主人のショートヘアが濡れて黒く艶やか。首にはいかにも水を吸いそうなふさふさした茶色のタオルがぶら下がっている。

「そう。雨が突然降ってきて。降水確率十パーセントって言ってたのに」

「そして、相変わらず大食らい」と未数。勉強机の端に置かれた盆を見て呆れる。通常サイズのモンブランと、未依夫人の十八番(おはこ)、オペラが乗っていた。

「あー、うん。お母さんのケーキすごく美味しいから。未数も食べる?」

「さっき食べたからいい」

 主人の糖質摂取量は通常の人の二倍は必要で、夕方にご飯一杯分位を頂く事はもはや、普通になっている。彼女がそれでも太らないのは脳の機械のせいだとか。この体質は一部の健啖家からも羨ましがられていた。

「それ、宿題?」と主人。主人のために用意されたパイプ椅子を広げて、少年の横に腰掛ける。主人は水滴を散らさぬようゆっくり髪を拭いた。

「そう。三頁だけでいいって言われたけれど、なんだか面白くなっちゃったからずっとやってる。半分くらいできた」

「それはやりすぎね。どう。休憩ついでに話しない?」

「いいよ。今日はなんの話してくれる?」

「何にしようか」

 タオルを首に戻し、コーヒーを含んで主人が「うーん苦い」っと言ってオペラをフォークで切り出して一口、即座「甘い」と、頬を押さえて口元を緩める。未数とは逆の攻め方をするので面白いと思いながら犬は主人を見ていた。

「今日のオペラはいつもよりナッティで、オイリーで、クリーミー。今日のコーヒーとも合う」

「僕はコーヒーの匂いは好きなんだけれど、牛乳や砂糖がないと飲めないから、わっかんない。あ、そうだ。聞いてみたい事を思い出した」

「何でもどうぞ」と主人。もう一口オペラを放り込む。その断面に焦げ茶色と黄土色の層が見て取れた。

「今日学校で、十円玉をくるくるって飛ばして、手のひらに落として、表にするゲームをやったんだけど、同じようにやってるのに表だけにできなかった。どうしてできないんだろう」

「確率の話だね。私もまだ習ったばっかりだし、苦手かも」

 確率の話ではなく十円玉を表にして着地させる技の話ではないのかと犬は言いたかったが止めた。

 主人は短パンのポケットからおもむろにコインを取り出し、摘んで裏と表を少年に見せている。どうして持っていたのか、しかも十円玉ではないようだが銅製らしく光っている。

「カクリツ?」と未数少年。計算ドリルを脇に置いて、自由帳を取り出し、何かを書き始めた。わからない言葉が出てきたらメモしておこうという主人の言い付けを守っての事だろう。

「そう。コインの場合は裏や表、賽子の場合は一から六までの数だけれど、そのどれが出るのか、それを当てられる可能性について数字で表した物、とでも言えばいいのかな。コインの場合、裏も表も同じ回数分だけ出る可能性がある。だから表が出る確率も、裏が出る確率も五十パーセントになる、例えば二回投げてみるね」

 主人はコインを右手親指で弾き飛ばし、きーんと言わせて左の甲で受ける。受けると同時に右掌でコインを叩き抑え、右手を退かせて左手の甲を未数に見せた。

「表?」と少年。「そう。こちらが表」と主人。同じように主人はもう一回コインを投げる。すると今度は「裏だ」と少年。

「こんなふうにある時は表で、ある時は裏、みたいに。表と裏の可能性が同じ回数分だけあり得る」

「カノウセイ?同じ回数分だけってどういう事?一回しか投げなかったら裏か表かがどっちか一回しか出ないんじゃないの?」

 その通り。犬は何度も頷く。

「たくさーんくり返した時って事みたい。どうしてたくさん繰り返さないといけないのかは、なんとなくそうしないとうまく説明できない気がするくらいしか思いつかないけれど」

「確かにたくさんやらないと同じような回数にならない気がする。コインを投げる時の持ち方とか、投げ方とか、高さとか、斜め具合?とか、投げた後の動きとか、投げる度にそういった違いがどうしてもあって、そういった違いをちゃんとわかっていないとずっと表にしたり、ずっと裏にしたりなんてできないんだってやってて思った。でもそうだとすると、ちょっとした違いが表と裏のどちらかの違いになってしまうから、たくさんコインを投げるときっと、その半分くらいは表で、半分くらいは裏になるのかな」

「お姉さんはそういう事を言いたかった。相変わらず未数は聡明だね。感心しちゃう」

「照れるぜ」と親指を立てる未数。

「さてさて裏や表を決める条件はたくさんあるんだろうね。持ち方だとか、角度だとか、投げたときの高さだとか、回転力だとか。どこからどこまでが表になるための条件で、どこからどこまでが裏になるための条件なんだろう。イメージとしては、表と裏になるための条件が縞模様を作っていて、そんでもっていろいろな条件が組み合わさるってーと、立体構造の市松模様みたいになるのだろうけど、その構造の細かさが、コインを投げる私たちの動きと比べて十分にバラついてしまうほど細かいから、表にしたり裏にしたりって狙うのが、月に置かれた的を弓矢で射るみたいに難しくなってる。だから狙い通りに表を当てる事ができない」

 的に当てる以前に、月に届く勢いを得る方がよほど難しいと犬は突っ込みたかったが、黙っていた。

「縞模様はなんとなくわかるけれど、イチマツ模様……お姉ちゃん言ってる事が難しいよ」

 少年は何かを一生懸命書き込みながら首をかしげている。

「いや、私もイメージでしか言えなくて。ごめん」

「でも要するに、僕が表だけにしようと頑張っても、その細かいところまで体を調整できないから、表ばっかりにできない、って事かな」

「そうね。合ってると思う」

「ってことはお姉ちゃん。すごくいっぱい条件がある中でコインの表や裏に絞られてしまうって事は何だかおかしな事じゃないのかな」

「おかしな事?」

「だって本当はたくさんの、角度だとか、動きだとかあるのに、コインの話をしてしまうと、そういったいろいろなものが突然、表と裏の話だけになってしまう」

「それはつまりこういうことかしら。未数が買い物に出かける時、スーパーに行く道はたくさんあるのになぜか同じスーパーに辿り着いてしまう。恐怖、同じスーパーに辿り着く道、みたいに?」

「うーん、似ているような、似ていないような」

 少年は意図的にスルーしているわけでもないらしい。犬は主人を密かに憐れむ。

「ともあれ、それが変な事なのね」

「変というか、なんかそれでいいのかな?って思える」

 ふたりは顎に手を当てて黙ってしまう。「うーん」と視線を合わせて唸り合う。

 その沈黙らしくない沈黙に耐えかね、犬はとうとう喋ってしまった。

「観測者が細かい事を切り捨てて限られた選択肢に絞ってるわん。観測者の選択設定問題になってるわん」

「カンソクシャノセッテイセンタクモンダイ?」

 犬を振り返りつつ、ふたりが声をそろえて言う。

「ハモったわんね。そうわん。コインが表でも、賽子が三でも、実は投げる度に同じ表でもなければ、同じ三でもないわん。表の絵柄の角度や賽子の角度が多分違うわん。でも観測した人はそこまでの違いを考えないわん。無視しているわん」

「ここまでにしようと割り切る荒っぽさがあると」と主人。

「そうわん」

「そうか」と未数少年。ペン回しをしながら話を続ける。

「もしコインを投げて机の上で立ってしまったらそれは、表でもなければ裏でもないかもしれない。けれど自分に向いている方が表とすれば、表か裏かは決まる。ルールによって表と見做すか、裏と見做すかは変わり得る。それは自然に決まっているというより、自分たちが勝手に決めているって事なんだ。ゲームみたいだね」

「なるほど、つまり」

 主人は机上のコインを手に取り、再び右手親指で弾いて放物線を描き、左手で受け止める。コインは中指と名無し指の間に挟まって起立した。

「今のこの状態だと、未数から見たら表、私から見たら裏。そう決められる」

「一方で困った事もあるわん。本当はいろいろな状態があるのに、それをルールによって絞ってしまうので、そうなった原因を辿る事が難しくなってしまうわん。スーパーに辿り着く道のりの種類がたくさんある場合を例に挙げるなら、スーパーに辿り着いた後、どこをどう辿ってきたか判らなくなっているみたいな話わん。だから時間を少し遡って、いろいろな出発点からたくさん繰り返し試して、どのくらいの確率でスーパーに辿り着けるのか試しておくらいしかできなくなるわん」

「そうだとすると、本当は細かく見ればいいのにサボったから、確率としてみるしかなくなった、みたいに聞こえるんだけど」

 彼女はオペラを食べ終え、しばらくもぐもぐさせた後、肩を震わせた。どうやら美味しいらしい。

「世の中のほとんどの出来事は簡単に原因へ辿れるほど簡単ではないわん。複雑すぎたり、すごい長い時間かけて辿ったりと、順に説明する事が難しい事ばかりわん」

「確かにそうよね。頭の中で考えている事も複雑。何で皆んなそんなふうに考えてしまうのかって思う事がよくある」と主人。コインを置き、モンブランにフォークを入れたが、止めてフォークを置く。

「いや、そう考えざる得ない問題に取り組むため?節約という事?うーん。つまりあれか。人の都合。人の生物としての、物理としての、限界があってそうせざるを得ないってことか。限界にもいろいろあるけど、例えば生き物って考えると、体の大きさは限られているし、いつも世界の全てを感じ取っているわけじゃない。向いている方しか見えないし、手だって背中に回す事さえままならない。そんなんだから、ここまでにしておこうっていう限界がどうしても出てきてしまう」

 そしてしばらく間を置き、主人は続ける。

「でもそうだったとしても、考えるときのルールを一旦決めて、たくさん試して、傾向を掴むと、また別のルールを決めらる。思えば自分の体の大きさについて確認するときでさえそうだったのかもしれない。生まれたときから体の大きさがこうですと説明されていなかったから、体を無作為に動かして、体はこんなんなんだって調べていった。そう、調べていった。幼児が人形のように静かにしているのではなくて動き回るというのは、遺伝子に調べたい衝動が叩き込まれているって事かもね」

「コインの裏と表の話だったのに、どうして体の話になったの?」と未数。その表情は遥か上空の雲を何気なく眺めるようにぽわんとしている。

「つまり何かを知るにも、限界があるとたくさん区別できなから、限られた区別でなんとかしようとする。これがコインの裏と表の話につながっている。コインにはいろいろな状態が本当はあるのだけれど、表か裏のふたつに限定してしまう。それがわかりやすかったから、まずはそうした。そしてそれと同じような事が人が生まれた時にも起こっていた。人の体の部位とか動きとかもいろいろあるとは思うのだけれど、なんとなくこれが手、これが足みたいに感じて、決めてしまう。生まれた時はこれが手とか足なんて言い表す事もできなかったから感じたそれは、言葉ではないけど、とにかくそうするしかなかった。でも私たちには生まれながらにしてやらないといけない事が、確かに与えられていて、それは遺伝で定められていたって事だろうけれど、それを達成するためにまずその時やれる限りの試行錯誤をした。試行錯誤するようになっていた。私も犬も未数も。例えば乳を飲みたいとかから始まったんじゃないかな。そしてもがくとか泣くとかしてなんとか、そこへ辿り着いた。実際にはお母さんが辿り着かせてくれたって事もあるけれど」

「そこから傾向の話につながるわん?」

「繋がるの?全然繋がりそうにないんだけど」と未数。膨れっ面だ。

「何かこれと決めたものに向かって試行錯誤を繰り返す。それはコインだったら表にしようって決めてコインを投げる事だし、サイコロだったら三にしようときめてサイコロを投げる事に通じる。生まれた時だったら、乳を飲むために泣く事に通じる。コイン投げを例にすると、コインに当たった空気の影響でコインの表面温度の分布が変わったり、空気の分子がコインの表面の分子の傾きを変えているかもしれないけれど、そんなのは気にしない。そして裏や表へ至るまでの道のりは様々な物理状態があってどうすればいいのかわからないけれど、まずは限られた見方と方法だけで話が進められるならそれでいい。いろいろな状態があっても、限られた方法を試行で説明できて、傾向を把握するくらいしかできないけれど、それでいい。傾向が解ってきてから、困る事が出てきたら、また考え直せばいい。その時になってから限られた見方や方法を捉え直せばいい。毒をもって毒を制すみたいに、限界を以って限界を制そうとしているってことかもしれない。でもそれしかやりようがない。そして私たちはそうやって物語を作っていく。でもその限界というか割り切りは、絶望や放棄を表さなくて、たくさんの道のりが束ねられたものなんだと受け入れることで、次に進む事ができる。まだまだ調べないといけない事があるってね」

「お姉ちゃん。意味はわからないけれど、一生懸命なお姉ちゃんを止めるわけにはいかないから続けて」と未数。

「ありがとう。んじゃ続けると、試行を繰り返すと疑問が出てくる。未数が表を出したらどうしたらいいか悩んだみたいに。私たちはそこから表になるための条件を探す。これが限られた見方や方法を、考え直す部分。一旦は表に至るまでの道のりを無視したのに、それを見直すことにする。これは表が出るように願うだけだったところから変わって、表に至るまでの過程で表と裏を区別できるような差異を見つける努力をする事になる。それは、表に至るまでの道のりの中間地点、と言えばいいのかな?例えば表になりやすいポイントを見つけて、その中間地点に達するよう工夫する事にする。その中間地点に辿れるようになったら、もともとは表と裏が同じような確率だったのに、表だけをたくさん出せるようになる。物語を作りやすくなる」

 そう言って主人は再びコイントスをして、左手の甲にコインを落とした。

「表だ」と未数。

 もう一度やった。鈴虫の鳴き声のような、いい音がする。

「また、表だ」

「じゃもう一度」

「またまた表だ。すごい」と未数は足をバタバタさせて喜んだ。

「それは表になるための条件を完璧に調べるのではなく、だいたい調べて、変えていくという事?」と未数が聞く。自由帳の一頁はもはや訳の分からぬひらがなで埋め尽くされている。

「そうかもね」

「世の中単純にはできていないわんね。主人が言ったように最初にここと決めて調べ、それがわかったら次はここまで調べてみたいに、徐々に掘り下げていくしかないわん」

「そうだよね。私の過去もそうやって探すしかないのかも」

「どういうこと?」

 未数は話の流れが変わったと気づいて目を輝かせる。

「なーんでもない」

 主人は短パンのポケットへコインを戻すが、未数がそのコインを欲しいと言ったので、「仕方ないな」と主人は言って未数に渡した。

「ちなみに、主人が説明してきた道のりを変えていく話は、人工知能にも関係するわん。傾向という言葉を借りるなら、その傾向をどうやって調整したら理想的な結果に近づきやすいか、どれだけ傾向を細かく見ていけばいいのか、そう言った事を工夫することで人工知能は発達してきたわん」

「ふーん、そうなんだ。でもでも、繋がってこないことがあるんだけど」と未数。

「なに?」と主人。

「僕がこうして計算ドリルをやっているとき、足し算や引き算や掛け算の答えがひとつしか決まらない。これはどういう事なんだろう」

「なるほど。未数の疑問はもっともわん。もし僕たちが何にも解らないところから始めて、決めつけで道を探ってきたとするなら、僕たちはいつだって別の結論へ至る可能性を残している事になるわん。でもそれなのに実際には、頭の中ではすでに決まった事のように振舞っているものがたくさんあるわん。それはどういう事か疑問わん」

「犬はどう思うの?」

 主人はニヤニヤしている。

「そうわんね。辿り着くための道を囲ってしまったと考えるわん。例えば足し算する数字についていえば、その数字になる記号の字面が、スーパーへの道のりにみたいに幾つもあり得るのだけれど、道のりを覚えてしまったのでこれが三です、これが五です、みたいに収まってしまうわん。脳の中にある何かが、三である事や、五である事を示す様々な道のりを、全て覆ってしまうように流れているわん。それは血液が飛び出させない血管みたいに覆っているわん。それから、三足す五の答えについて考えるとき、これは、三とか五を決める道筋とは違う道だけれど、そこも、道そのものに標識が立っていて、それに従うように辿っていくわん。ルールに従って辿るので、横道にそれる事がなくて、八に行き着くわん」

「犬さん。わからないよ」

 未数は眉間にしわを寄せる。

「そうだな、途中が抜け道がないってところをどう言い表すか」と、いつの間にか半分ほどのモンブランを食べ終えた主人が言う。

「何かいい言い方があるわん?」

「無いけれど、でも例えば、これが三ですと決める事も、これが足し算ですと決める事も、実は自然現象からとっくに切り離されて、人間が独自に作ったルールでしかないって意味で同じって考えたら、細かい事はその人が全て知っているよの範囲、という事になるんじゃないかな。というか、勝手に決めたルールだけで物語を進められるようになっている状態に、上手く仕立てられたって、言えばいいのか」

「三も足し算も勝手に作ったものでおんなじ?」

 未数が首をかしげる。

「そう。ただ注意が必要で、ここでおんなじと言ったのは、コインの表と裏を勝手に決めたみたいに、お姉ちゃんの中で同じ、という意味に至る道程をすっ飛ばして決めているって事で、状況が入れ子になっているから、そこのところを忘れないで」

「複雑わん」と犬。

「うーんと、自分のルールに宛てがったので、勝手に色々できるようになった?」と未数は苦笑い。

「確かにそんな感じわん」

「でもそうやって考えると……」

 主人が窓の外を眺めながら呟く。

「何かに決まるとか、ルールをどうするとかって、生まれた後で身につけてきた事だし、限界をもって限界を制そうとせいぜい頑張るくらいしかできないところからのいわゆる創作物でしかないなわけだから、それが自然の摂理とか絶対であるかのように、あーだのこーだの言い張る私たちは本当、恥ずかしく思う事はできても自信をもって表明なんて事はついにできない定めかもね」

「そういう意味の恥ずかしいはあまり聞かないわんね。でも自分を確固たるものとして立てておく事は、自分という存在が確率的になって危うくなってしまうから、必要わん。それがヒトとしての、必然的な強がりであって、限界でもあるわん、きっと」

「犬に言われると胸倉を取って小突き回された気分になるわね」

「あははは、何それ」と未数。

 犬には未数の笑いの壺がわからないのだけれどいずれにしても、こんな話で盛り上がる高校生と小学生が他にあるのだろうか。犬はそう思ったものである。

 

 帰り際、未数と一階へ降りた主人はいつものように仏壇の部屋に寄って拝んでいく。未数の祖父母のものだけではない。もうひとつ小さい位牌がある。遺影が見当たらないのは、彼女が死産だったからだ。

 黒地の板が金色で縁取られ、金色の文字で何かが綴られている。それは死んだ後に付けられる名前であるらしいが、読み上げてもらった事はないので何と読むのか、犬には解らない。ただ普通の名前よりは長い名前になっている事くらいは、文字の長さで判った。

「生きていたらお姉ちゃんと同じ年だったんだって」

 未数が主人の隣で同じく手を合わせて言う。

「そうみたいね。未数のお母さんもそんな事言ってた」

 主人は合掌を止めて未数に向き直る。

「お姉ちゃんって呼んだんだろうか」

 未数も主人の方へ向き、胡座をかいた。

「そうでしょう」と主人。

「もし僕のお姉ちゃんがいたら、どんなお姉ちゃんになったんだろう。犬のお姉ちゃんみたいになったのかな」

「さあ、どうかしら。私みたいにはならないほうがいいかもしれないけど」

「そんな事はないよ」と未数。

 とはいえ未数はお姉さんの過去を全然知らない。この性格の持ち主がいったいどのような経緯でできあがったのか興味があった。

「そう。それは光栄?ありがとう」

 彼女はザックを背負い。平らげられたコーヒカップと皿の乗ったお盆を手にして立ち上がる。

 未数も立ち上がって「また明日。あ、最後にもう一度、表、出してよ」とコインをポケットから取り出して主人に渡す。

「宿題はほどほどにしときなよ」

 キーンと音を鳴らして宙に飛ばすと、左手のひらの甲と右掌で捕まえる。

「解った」

 見せるとコインは表だった。

「すごい。今日はやめてコイン投げ練習する。じゃね、犬のお姉ちゃん」

 少年は主人からコインを受け取ると颯爽と駆けていき、階段を上っていく。

「コインが落ちてもいいようにベッドの上でやりなよ」

「わかったー」

 仏壇の部屋には未数の足音が香ばしく残った。

「オペラも、香ばしくて美味しかったな」と主人。

「いったいどんなトリックを使ってるわん」

「トリックなんてないわよ。下手な鉄砲、数打ちゃ気づく」

「そうわん?明日から質問攻めわん」

「うふふ、そうかもね」