大学5年、6年の頃、同級生の間でハリソンの内科書を原文で読むというのが流行った。
私も流行に乗り遅れまいとしてその本を買い求めたが、私にはどうも難しすぎた。
その本は細かい字がびっしりで挿絵なんかない。
重さは半端ではなく、枕にするには高すぎた。
同級生に負けるのも悔しく、大学の前にある本屋で英語の解剖学書(ネッター先生の描いた絵本風の本で、今も解剖学教科書として愛用している)や画像診断の分厚い教科書(フェルソン先生の書いた胸部レントゲンの教科書)の縮刷版(枕にならないくらい薄い)などを買い求め、その気になっていたりした。
そんな話は、すっかり昔のことで、幾星霜、一度も思い出すこともない記憶であった。
大阪の南の関空近くの病院に勤めている時であった。
アメリカの学会で発表する機会があり、学会のブックコーナーで懐かしい一冊を見つけた。
あのフェルソンの縮刷版である。
手に取ると昔通りの内容だが、CTの写真が追加され、今更だが勉強になりそうな気がした。
一冊を買い求め、病院のスタッフのお土産とした。
スタッフの一人は、私が三顧の礼を以って中国地方の大学から借り受けてきた新進気鋭の放射線科医だ。
胸部の放射線診断を専門にする彼はその本を見るなり、叫ぶように言った。
『先生!これを訳して売りましょう』
私が専門を放射線科にしたのもこの本の影響がないでもない。
何かの因縁であろう、彼の熱意を受け止めた。
三人で分担し、訳し始めたが、あとの二人が優秀で、私はほんの1割ほどしか訳していない。
かくして『フェルソン、読める!胸部エックス線写真』という訳本が出来上がった。
著者は三人共著の体を取っているが、私の名前がまず一番で、その後に二人が続く。
目上を立てる見上げた人二人であったが、目上の私はとても恥ずかしい。
医学書にしてはよく売れたらしく、ほどなくして第2版が出来上がった。
さすがに私も心苦しかったので、著者の名前から外してもらい、第2版の著者は残りの二人だけだ。
アマゾンで調べてみたら、初版本は60円で売っている。
お値打ち感がないでもない。
第2版は、7560円もする。
殆ど値引きはないのできっと今も売れているのだろう。
それから何年たったのだろう、私はもう放射線診断の仕事はしていない。
でも、肺癌や肺転移をカテーテルで治療している。
向こうを張った訳ではないが、アメリカで出版された動脈塞栓術の専門書の一章は、『胸部腫瘍の動脈塞栓術』となっていて、その著者は私一人だ。
私が連れてきたくだんの放射線科医は、古巣の大学で教授になり、幾多の放射線科医を育て上げている。
そのうちの一人をまたぞろ引っこ抜こうと、今また秘かに『三顧の礼作戦』を立てているのだが・・・。