浜田へ 塞栓物質開発秘話 その3 | S.H@IGTのブログ

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大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

毎度、苦労話に過ぎないような話にお付き合いいただき誠に恐縮です。大学を去った私、もういい加減あきらめようと思い始めていた頃、肝臓がんの患者さんとの交流から塞栓物質の開発を続ける勇気と喜びを与えられました。

 

私が赴任したのは大阪の南の端に近い市立泉佐野病院であった。

大阪で一番汚い病院と悪評が立つほど、古く隙間風だらけの病院、、、でも、そこには夢があった。

夢は新病院建設であり、新しくできた関西空港の医療支援施設としての役割も担っていた。

そこで働く誰もが明るく、いいものを作れば未来が開けると信じていた。

 

私は放射線科部長としての仕事を任され、総長、院長の温かいサポートを戴いた。

総長の『放射線科を見ればその病院のレベルが判る』の一言を背に、思う存分、図面を引かせていただいた。

院長からは、内科の外来枠を回していただき、放射線科の外来も開くことができた。

 

有難いことに私の外来には肝臓がんの患者さんが集まり始め、その中に釣井伯彬さんがいた。

大阪市内で何度か肝動脈塞栓術を受けて来られたが、病気を抑えることが出来ず私の外来を訪ねて来られた。

私からは、もう今までと同じ治療を行っても効果を期待できず、副作用ばかりが出てしまうことをお話した。

それを話した時、私の手には大学の研究室で作った球状塞栓物質の瓶がしっかりと握られていた。

この人にはこれが必要だと、訳もなく考えていた。

この塞栓材料を肝臓がんの患者さんには一度も使ったことはなく、どうなるかもわからないとお話した。

でも、釣井はそんなことを一切気にすることもなく、私に治療を委ねられた。

 

彼は島根の浜田から大阪に出てきたこと、今の仕事のこと、今の悩み、大好きな浜田のお姉さんのこと、問わず語りにいろいろな話をしてくれた。

私たちはもうすっかり友達になったような気分でいた。

 

あの暗い隙間だらけの部屋で、古い装置のモニターに目を凝らしながら治療を行った。

でももう、もう昔のことで治療中のことは覚えてはいない。

治療後、必ず起こる腹痛や発熱が意外に軽いのが気にかかった。

ひょっとして何も効いていないのでは、、、心配がつのる。

『釣井さん、ゴメンね』と心の片隅で思う。

 

でも、1か月後の検査では、不思議に病気の進行が抑えられている。

『釣井さん、ほらね、効いたでしょ!』、心の中で叫んでいる。

結果を説明する私は、きっと明るく、早口で、多弁でうれしそうだったと思う。

興奮して話す私の顔を見ながら、私の説明はどうでもよさそうな雰囲気で、ただ釣井さんは私の様子を面白がっていた。

 

治療直後も浜田のお姉ちゃんのことを何度も何度も話され、まだ見ぬお姉さんをいつも釣井さんの隣に感じていた。

お姉さんには私から電話を差し上げ、弟さんの病状をお伝えしていた。

 

その後、何度か治療を行ったが、とうとう最後には病気の進行を抑えることが出来ず、大阪市内の病院で亡くなられた。

私は友達を亡くしたような無力感に襲われながら、考え続けた。

この方法でもっと強く治療していれば、釣井さん良くなったんだろうか?

何か他に工夫をすれば、釣井さん亡くならなかったんだろうか?

 

釣井さんの治療をしたことは、長く肝臓がんの治療に関わってきた私の大きな転換点になった。

副作用は軽い、患者さんはなぜか元気で落ち込まない。

CT画像は変化が少ないけど、なんだか不思議に効いている。

大阪の南の端の小さな病院で、小さな臨床研究が始まった。

 

やがて、新病院が立ち上がり、この病院でしかできないような治療を展開しようと仲間たちが集まり始めた。

肝臓がんの患者さんもだんだん増え始め、この球状塞栓物質がきっと新しい肝臓がんの治療法を開くと私たちは確信し始めた。

 

そんな中、ボストンの医療ベンチャー会社のJean-Marie Vogelと出会い、私もボストンを訪れ、二人で新しい塞栓物質を世に広めようと誓い合った。

20世紀もうすぐ終わろうとするとき、未来への夢が始まった。

 

『ここに病院を作ろう』Jean-Marie Vogel の囁きが、私の心を大きく動かし始めていた。

 

2002年3月末、私はがんの動脈塞栓術専門のクリニックを立ち上げようと、7年間在籍し多くを学んだ市立泉佐野病院を後にした。