私の人生を大きく方向付けたあの一年は、もう四半世紀以上も前となってしまった。
阪神ファンがカーネルおじさんを道頓堀に投げ込んだあの年、私たち一家はスイスにいた。
御巣鷹山にジャンボジェットが墜落したのもあの年で、アパートの隣人がまるでお悔やみを言うかのように知らせにきてくれた。しばらくして『生存者がいるよ!』と息を弾ませて新聞を持って来てくれた。
今も私に、私の一家に大きな意味を持つ鮮烈な一年間が、どちらを向いても絵葉書のようなスイスの美しい景色の中にあった。
その数年前、医学放射線学会の総会が大阪で開かれ、医局の先輩が留学していたスイスの大学から特別講演のために教授がやって来た。
その年の学会の主催は私の所属していた医局だったので特別講演の教授のお世話役を医局内で決めることになった。
そんな重要な役目は普通なら助教授クラスが適任なのだが、重要人物の御世話役が楽しい役目であるはずがなく、講師の先輩方がそれぞれに理由を付けて上から順に断り続け、序列が一番下の助手の私のところまで降りてきた。
下に振ろうにも手下が全く居ない私には、御世話役を断りたくても誰も取り合ってくれない。
とうとう私はその学会期間中、自分の研究発表だけを行い、スイスの教授の臨時運転手とお買い物案内ばかりしていた。
英語もロクにできず、医学の知識も未熟で、運転手に徹するしかない私であった。
でも苦労したおかげで、私は日の丸の旗はどこへ行けば買えるか知っているし、ローマ字の印鑑はどこへ行けば作ってくれるか知っている。
そんなことを家に帰って話したら、結婚した時から私が何処かへ留学してくれないかと願い続けていた家内が、『アナタ、アピールあるのみ』と私に叫ぶのであった。
教授が帰るときに、家内の指示通りに私は数少ない論文を大学の封筒に入れて遠慮がち教授に渡した。
教授にとっては迷惑なお土産で、きっと読むのが面倒くさかったのであろう、『お前の専門は何か』と聞いてくれた。
血管造影検査と答えた私のことを覚えてくれていた教授は、数ヵ月後にスイスの大学病院で血管造影の医者が足らないので一年間スイスで働かないかとの手紙をくれた。
私はその手紙を握って家に走って帰り、妻や子供たちに、『スイスに連れて行ってやるぞー』と叫んだ。
その時、家内は、結婚して初めて私のことを心底から褒めてくれた。以来、それほどまでに私のことを褒めてくれたことは、ついぞ、ない。
もうすぐクリスマスという日に、私たち一家はそのアパートに着いた。
生活道具一式が揃えてある部屋には床暖房のスイッチが入れてあり、テーブルの上には大家さんのプレゼントのブッシュ ド ノエルのクリスマスケーキと赤い蝋燭がおかれていた。
その一年間、私は血管造影に明け暮れ、それなりに苦労し、医者の経験を積んだ。スイスの同僚からは人間らしい生き方も随分と教わった気がする。
家内は日本での仕事から解放された上にアパートの人達から温かく迎えられ、美しい景色の中で子供たちも育てることができた。
グーグルアースで眺めると牧草地の真ん中にあったあのアパートが手に取るように写っている。あの美しい景色の中に、私たちの記憶と寸分違わぬあのアパートが今もある。。。
つづく。