幸運をあてにしない生き方 | igetahisayukiのブログ

igetahisayukiのブログ

ブログの説明を入力します。

私たちには、忘れがちな喜びがある。
もらう喜びではなく、創る喜びである。
やれば確実に得られる喜びだし、喜びの質も深い。
 
これまでの忘れられない思い出を思い出してみて欲しい。
 
私にも沢山ある。
● 小学校1年から4年まで学年で走るのが一番速く、私が勝手にライバル視していた子に、5年の時の運動会の徒競走で勝った時。
● 高校3年の時、水泳部の大会で、部員が数十名いる絶対王者である高校も参加している200mリレーで、こちらは男子部員6名の陣容で4人のリレーに出たが、アンカーで抜いて勝った時。
● 高校3年の柔道の授業で、隣のクラスと勝ち抜き戦をすることになり、誰も最初に出たがらない中、一番バッターとして出て、相手クラス全員を勝ち抜いた時。
● 音楽無知な私が無名の17歳の女の子のコンサートをプロデュースし、1,000人集めた時。
等々、数え始めたらキリがない。
 
走馬灯のように浮かんで来る思い出の数々は、どれも努力し、執念に燃え、勝ち取ったものばかりである。
そう、人にはあまり言わないが、私は「執念」という言葉が好きだ。
流行りの言葉で言うならば、「Giit」だろうか。
 
こうやって考えてみると、人生の思い出に残るシーンには、偶然に頼ったものが1つもない。
 
もちろん生身の人間だから、ラッキーなことにも喜んではいる。
● 試験でヤマが当たった時とか。
● 麻雀で役満を上がった時とか。
● ステキな子が偶然隣に座った時とか。
などなど。
でもこれらの出来事は、思い出としては残っていない。
 
予期せぬ幸運が訪れると本当に嬉しくなるが、その心理はなぜなのだろう?
労せずに得出来たからだろうか?
例えば宝くじで1万円当たったら嬉しいだろうが、その時3万円分のくじを買っていたら、そんなに嬉しくはないかも知れない。
 
幸運を素直に喜んでいいとは思うが、気を緩めていると、幸運をアテにする自分になっていくから気をつけなければならない。
もし不平不満が増えて来たら、その兆候と捉えよう。
幸運が訪れた時は、喜ぶと同時に、謙虚になるべき鍛錬の場も与えてもらえたと考え、さらに喜ぼう。
 
 
幸運以上の頻度で不運もやって来る。
単に運任せにした時の不運の結果ならまだ許容出来るが、努力したにも関わらず不運がやって来ると、これは何の報いなのだろうかと、無意味に意味付けをしようとしてしまう。
努力不足だったという意味付けならまだマシだが、誰かのせいにする他責心が芽生えたら、悪循環の道に入り込んでいくことになる。
 
幸運には、罠も潜んでいるから要注意だ。
 
数ある不運の中でも一番納得がいかない不運は、誰かのエゴに巻き込まれた時だろう。
 
● 街で無差別な殺傷事件に巻き込まれる。
● サイコな上司や同僚、パートナーのハラスメントのターゲットとしてロックオンされる。
● 巧妙な詐欺に騙される。
等々…。
 
避けようがない不運もあるが、もしかしたら、エゴの強い人の射程距離に入ってしまった自分に原因の一端もあったのではないかと、頭をよぎる。
野生の草原で、食べ物に夢中になるあまりに、ライオンの射程距離に入ってしまったことに気付かなかったウサギの気分と同じだ。
幸運はリスク回避の意識を薄れさせる。
 
憧れる人や尊敬する人と自分を比べて、または認めたくはないが妬んでしまっている人と比べて、素質も行動もそんなに差はないように感じているのに、「どうして自分はこんなに不運何だろう?」と感じる人は、「出来る人」が、
● 運に頼らない生き方をしていること
● エゴの強い人を敏感に察知し、近付けない努力を怠らないこと
をしていることを悟ろう。
 
 
同じ「喜び」でも、偶然得られる喜びと、必然的に何度でも得られる喜びでは、喜びの深さが違う。
再現度の高い喜びの味をもっと知っておこう。
そして癖にしておこう。
 
幸運に溺れずに、幸運を加速開始のきっかけにしていこう。