これは、クセなのだけど。

急に怖くなる時がある。





私はいま、こんなかんじでお仕事をしているけど、

何が欲しくて仕事をしているだろう。





単純に、お金だなぁ。





もっと美しい言い方があるだろうけど、

まあ、余計な体裁抜きにしてシンプルに書いたら、

お金が欲しくて仕事してるなぁ。





じゃあ、何のためにお金が欲しいかと言ったら

安心のためだなぁ。





私は安心が欲しくて、

安心を得るためにお金が欲しくて、

そのお金を得るために、

お仕事をしている。




私はそれでいいと思っている。





お金論やお仕事論は

この世界でたくさんの考え方が蔓延っているけど、

私はこれでいいと思っている。





わたしは、安心が欲しくて働いている。





実際に

起業してこの4年で、

おかげさまで右肩上がりでお仕事をさせてもらって

お金を稼ぐようになったら、


私の人生における将来への不安は、

ほぼなくなった。(すげー。)





お金に関してうんちくを語るセラピストとかで


「安心が欲しくてお金を稼ごうとしている人は、

結局お金が手に入ってもその不安は無くならないよ」


的な考えを発信している人もいるが、

私はそうは思わない。



 
そう言う人は、

実際に自分がお金を手にして無くて

それを体験していないから、


そんなテキトーな憶測で

モノを言うんじゃないだろうか。

(要するに稼がない言い訳をしている)





安心が欲しくてお金を稼ごうとしてる人は

お金が手に入ったら、その不安は無くなる。



全部はなくならないかも知れないけど、

その不安の多くは消えて無くなる。






なんでそう言えるかっていうと、

私がそうだったから。





実際に、不安のほとんどがなくなった。






例えば私の場合、


同居生活をしていて

お金がなくて肩身が狭くて

それによる身の置き場のない不安感や、


「自分は義家族に『お前はこの家のお荷物』と思われているのではないか??」

というような恐怖や罪悪感はなくなった。





例えば姑が、

ユニクロの値下げ商品の洋服を着ている。




過去の私はそんな姑を見て

「私が働いてないから、姑は安売りの服を着てるんだ」

と自分を責めていた。



「ぐりこ、お前のせいで私はこんなみじめな年金生活を送っているんだよ」

と、姑に責められているような気がしていた。




お金を稼ぐようになった今は

「姑は、好きであれを着てるのね」と思える。




ちなみに私は、

生活費は、旦那が働いた給料から出しているので、

私が稼いだお金は、家には入れていない。




お金は実際には

私から動いていないのだ。


家での生活は何も変わっていない。

姑の生活も変わっていない。




それでも

働くようになっただけで、

同居の罪悪感がなくなった。



「私はこの家のお荷物」という不安がなくなったのだ。




例えば将来、

家を建て替えるためのお金が必要とか、

子供の将来にお金が必要とか、

あるいは家族の誰かが病気になって

まとまったお金が必要とか、


そういう事態が起きたら、

私がお金を出すことができる。



姑に何かお金が必要なことがあったら、

助け船を出せる。




「お金に関して私は助け船を出すことができる」

という選択肢がひとつ増えたことが、

私にとって、大きな自信になった。






それから

実家の母の問題も、

お金を稼ぐようになって、

ずいぶん不安が楽になった。





母との関係性は、

いろいろ擦った揉んだがあったが、

特に変わっていない。



でも

私はお金を稼ぐようになったから、

独り暮らしの母に援助もできるし、



万一、近い将来介護が必要になっても、

「お金で解決する」というひとつの選択肢が増えた。




今までは、

お金もない。遠くに住んでる。

親類もいない。介護もできない。

頼れる人もいない。

八方ふさがりで共死にするしかない。

親の老後が恐怖!だった。




親の老後が恐怖なのは、確かに今でもあるが、

お金を稼ぐようになって

その不安は、ずいぶん減った。




有事そのものは免れなくても、

お金を持つことで

有事の際の選択肢が増えることは、

とても大きな安心だ。




「八方ふさがりに感じて身動きが取れないんじゃいか?」

という不安が

「きっと、お金がかかったとしても、私には何か次の一手が打てるはずだ。」

と前向きに捉えられるようになった。




だから、

安心が欲しくてお金を稼ごうとしてる人は

お金が手に入ったら、その不安は無くなる。

安心して稼いでいい。

 


ワタシなんて、

母の老後に関しては、

子供の頃から不安だった。



人生をかけた不安が

お金で解決できるのだから、

働かない手はないだろう。




働けば安心が手に入るのだから、







さて。

ここからがキモである。



 

と、いうことは、

私は安心のために、お金を稼いでいるし、

私は安心のために、働いている。



これを忘れてはならない。




つまり、先日の対談の流れでいくと、




私は安心のためにお金を稼ぐ。

そして、そのために働く。
 
そのことに、突き進んでいい。

 

ということだ。





実際、それに突き進んでいるから、

上手くいっている。




逆に言ったら、 

私は、ある一定のライン以上

安心を犠牲にするお金は稼がない と決めているし、

安心を犠牲にする仕事はしない と決めている。




これは、すごく心がけている。




例えば、

県外で仕事のお誘いを受けて、

お断りすることがある。



たとえそれが他人から見たら

お金になるようなオイシイ仕事でも、

お断りすることがある。 




それは、私にとって、安心が基準だから。





その仕事が単体でうまくいくか?

儲けられるか?成功するか?というような、

目先の安心感じゃない。

 
もっと、人生をかけた安心感。





例えば、遠方で仕事をする際、

子供を預ける。


年寄りと、持病持ちの家族に預けて

そのための段取りを組んで

仕事に出る。




そこには、不安が発生する。

無いと言ったら噓になる。

少しの不安が発生する。





新幹線で移動する。

私は段取りが苦手だし、都会に慣れてないので

不安が発生する。

宿泊が絡む場合は、段取りが増えるので

ますます不安要素は増える。





その不安を被ってもやりたい仕事かどうか?


それを、仕事を受けるときに必ず考える。

  


「私は安心が欲しくて仕事をしている。」

そこに意識的に立ち戻る。




言葉を飾らず書くと、

その仕事がその不安を被ってまで

本当にやりたいことかどうか、と

必ず考えるようにしている。





もともと私が欲しいのは、「安心」だからね。




それを犠牲にしてまで、

やりたくない仕事はやらない。


それを犠牲にしてまで、

会いたくない人とは会わない。



これは、プライベートでもそう。




どんなにお金を積まれても

どんなに酷い奴だと思われても、

私にとって重要な自分の安心が

減ってしまう行為は、やらないと決めている。





それをやったら

私にとって、

お金を稼ぐことそのもの

そして働くことそのものの

人と付き合うことそのものの

意味がなくなるから。





そしたら、

私の仕事が今のスタイルに落ち着いた。


 
今やってることは

不安を被ってでもやりたいこと。



今会ってる人は

不安を被ってでも会いたい人。



大事な安心よりも、大好きなこと。

そしたら、お金が手に入って、

結果的に安心が手に入った。

 



そして、もうひとつ重要なのは、


すでに今やっていることに対しても

その不安のボーダーラインが

どこまでならOKで、どこからはNGなのかを、

自分の中で明確にしておくことだ。




たまにそのボーダーラインに近づくと、

怖くなるときある。

そんな時こそ、原点に立ち返る。



私は何が欲しくて、それをやってるの?



目先の一時の安心感は関係ない。