日本人と西洋人の根本的な考え方の違い | 席亭こう生の落語的な日々

席亭こう生の落語的な日々

子供の頃からの落語好きが高じて、

いつの間にか落語会を主催する事に.....

全くの素人だった私がいかにいして

落語会を企画、運営しているのか

席亭こう生の落語的な日々...

前回の記事の中に
「日本人は、キリスト教のような共通の宗教がないのに ...」と書きましたが

それでは、何故日本にキリスト教が普及しなかったのでしょうか?

日本のキリスト教信者の数は人口の僅か0.8%だそうです


それでは、お隣の韓国はどうでしょうか?

独立後の一時期は40%、現在でも、25%の国民がキリスト教徒だったそうです。
日本よりも厳格な儒教の国の韓国がこれほど多くの国民がキリスト教徒なのに
キリスト教の行事や風俗、クリスマスやハロウィン、教会式の結婚式など
一般の隅々までもキリスト教に関連した事が浸透しているのに
何故、キリスト教自体が普及されないのでしょうか


明治時代、文明開花を迎え日本は急速な西洋化を進め、
日本の文化は西洋に比べて劣る物と、西洋の文化、風習を
取り入れていきましたが、キリスト教は何故浸透しなかったのでしょうか

「ハイカラ」を良しとした文化人は仏教に比べ高級感(?)をもった
キリスト教徒にならなかったのでしょうか

それは、ユーラシア大陸文明の特徴ともいえる
遊牧、牧畜の要素が日本にはなかったからではないでしょうか?


「神が牧者で信者はその命じるところに従う羊の群れ」という考え方が
日本人には理解できなかったのではないでしょうか




「日本人はなぜ日本人を愛せないか」 (鈴木孝夫・著  新潮選書) から引用します



ユーラシア大陸の文明、 その特質とは、人間生活の土台が古くから今に至るまで
【家畜+穀物(主として小麦)複合体】だということです

これに対して日本人の基本的な生活基盤は、つい2、30年まえ経済が豊かになるまでは、
過去千年以上もの間【魚介+穀物(米と雑穀)複合体】だったのです。
この違いが現在の世界で圧倒的な強さを示しているユーラシア的文明、
これにはヨーロッパはもちろんのこと、アメリカ文明も中華文明も含まれますが、
この系統に属する諸民族と、これまでの日本人を大きく区別する要因となっていたのです。

そして究極的にはこの違いに基づく人間観、世界観の違いが、
はっきり意識されてはいなくても、なんとなくキリスト数的な世界観を
日本人に受け入れ難くしているのだと私は思うのです。
 
考えてみるまでもなく人間は典型的な雑食動物ですから、
いつどこでも適当な割合で植物と動物の両方を食べる必要があるのですが、
ユーラシア大陸の人々は古くからこの動物性の食物を、
野生の獣を獲ることに加えて主に家畜化された動物の乳や肉から摂ってきました。

その結果、これらの人々は長い間のうちに
家畜と密接に共生する生活文化体系を作り上げたのです。
 
ところが伝統的な日本人の生活は、風土条件や宗教上の理由などによって
家畜に依存することが非常に少なく、したがって家畜を主な食料源とする
文化は成立しませんでした。

そのかわり日本人は海や川から取れる水産物、
すなわち魚介類や海藻類を極度に利用する文化
(現在でも約80種の海藻が何らかの形で利用されていて、これは世界一です)を
つくりだしたのです。

これを私は簡潔に【魚介+穀物複合体】と呼んで、
ユーラシアの【家畜+穀物複合体】と対比させることにしたのです。

ひとことで言って、相手(対象)を支配しようとする「意思」の有無です。
魚介文化の日本人には、「適当な割合で植物と動物の両方を食べる必要があるのですが、
ユーラシア大陸の人々は古くからこの動物性の食物を、
野生の獣を獲ることに加えて主に家畜化された動物の乳や肉から摂ってきました。

その結果、これらの人々は長い間のうちに
家畜と密接に共生する生活文化体系を作り上げたのです。
 
ところが伝統的な日本人の生活は、風土条件や宗教上の理由などによって
家畜に依存することが非常に少なく、したがって家畜を主な食料源とする
文化は成立しませんでした。

そのかわり日本人は海や川から取れる水産物、
すなわち魚介類や海藻類を極度に利用する文化
(現在でも約80種の海藻が何らかの形で利用されていて、これは世界一です)を
つくりだしたのです。

これを私は簡潔に【魚介+穀物複合体】と呼んで、
ユーラシアの【家畜+穀物複合体】と対比させることにしたのです。

ひとことで言って、相手(対象)を支配しようとする「意思」の有無です。
魚介文化の日本人には、「適当な割合で植物と動物の両方を食べる必要があるのですが、
ユーラシア大陸の人々は古くからこの動物性の食物を、
野生の獣を獲ることに加えて主に家畜化された動物の乳や肉から摂ってきました。

その結果、これらの人々は長い間のうちに
家畜と密接に共生する生活文化体系を作り上げたのです。
 
ところが伝統的な日本人の生活は、風土条件や宗教上の理由などによって
家畜に依存することが非常に少なく、したがって家畜を主な食料源とする
文化は成立しませんでした。

そのかわり日本人は海や川から取れる水産物、
すなわち魚介類や海藻類を極度に利用する文化
(現在でも約80種の海藻が何らかの形で利用されていて、これは世界一です)を
つくりだしたのです。

これを私は簡潔に【魚介+穀物複合体】と呼んで、
ユーラシアの【家畜+穀物複合体】と対比させることにしたのです。

ひとことで言って、相手(対象)を支配しようとする「意思」の有無です。
魚介文化の日本人には、「他者(対象)としての生き物を支配下において、
その行動を制御する」という観念が生まれなかった。
もしあってもユーラシアの人々に比べると非常に希薄なのです。
考えてみればすぐ分かることですが、魚介類は人間が支配し命令を下して、
その行動を意のままに操ることのできる対象ではありません。
魚や貝はただそこにいるものを採取するか、あるいは追いかけて捕まえるだけのものです。
 
これに対して家畜は、人間が自分の支配下に置いて命令を下し、
その行動を制御しなければ、家畜を飼う目的が達せられません。

ですから家畜となる動物は、人間が(いろいろと手を尽くせば)
言うことを聞かせることのできる性質をもった動物だけが、
何時どこでも選ばれるのです

(人間の思うままにならない動物や、人間に刃向かってくるような動物が、家畜に向かないことは言うまでもないでしょう)。
 
「動物性食物としての生き物を支配し、その行動を制御しようとする強い意思が、
人々が生存していくために絶対に必要であったか、そうで無かったか」という違いが、
やがて他者としての人間を支配の対象とするときの意思の強さの違いとしても現れ、
それは同時に、支配者と被支配者との間に明確な区別、
意識の上での対立や断絶を生むことになりました。

これがユーラシア大陸の人間と日本人を截(せつ)然と分ける
最も重要な相違となっているのだと私は考えているのです。




日本人は古より、畑や田んぼを耕し、魚や貝を取り、自然とともに生きてきました

自然は自分たちの力ではコントロールする事ができません


私たち日本人は、自分達の力ではどうする事も出来ない
自然の力を恐れ敬い自然とともに生きてきましきました。


それが、日本人の潔さにも繋がるのではないでしょうか?