荒神谷遺跡 | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは‼

史跡巡りレポ島根編本日は出雲市の荒神谷遺跡をご紹介いたしたいと思います。

「出雲に銅剣制作軍団?」

荒神谷遺跡を知ったのは、高校の日本史の授業。

昭和58(1983)年、島根県斐川町の広域農道建設に伴う遺跡分布調査で、調査員が須恵器を発見したことをきっかけに発掘調査を行ったところ、358本という夥しい数の銅剣が出土したといいます。

この頃、全国から出土していた銅剣の総数はおよそ300本。それを上回る数が一か所から出土したわけですから、これは大ニュースになったとか。

 

しかも、「銅鐸は近畿、銅剣は北部九州と相場が決まっていたから、これが見事覆されたんだよねぇ・・・」

といったお話も伺ったことがありました。

 

誰が?いつ?何のために?これだけの数の銅剣を埋めたのか。

これほどまでにロマンあふれる遺跡に、機会があればぜひ行ってみたい!と思って数年(笑)。ようやく実現いたしました。

荒神谷遺跡は、以前ご紹介した「西谷墳墓群」からおよそ3㎞離れた場所にあり、現在は荒神谷史跡公園として整備されております。

公園内には蓮池や博物館、復元竪穴住居など、様々な施設があります。

その一角に、現場はありました。

発掘時の状況がしっかり保存されております。

付近へは立入禁止でしたが、向かい側にある展望台から遺跡の全景を見ることができます。

発掘現場をよく見てみると、埋納されていた銅剣(レプリカ)が置かれております。

銅剣は4列に並べられ、刃の部分が上を向いた状態で、同じ方向を向いて隙間なくびっしり詰められていたといいます。

 

・・・これ取り出すとき大変だっただろうな・・・(;´Д`)

また銅剣発掘の翌年には、銅鐸6個と銅矛16本が発見されました。

この組み合わせも他に類をみないものでして、銅鐸の中では日本最古のものも含まれていたといいます。

 

この遺跡は弥生時代の青銅器研究の見直しを迫られたほど、歴史的な発見だったのです。

 

 

 

・・・一概に「銅剣358本」と言われてもイメージし辛いので、出雲大社横にある「島根県立古代出雲歴史館」に飛んでみたいと思います。

 

じゃん‼

 

「島根県立古代出雲歴史館」は何と展示室内撮影OKな嬉しい博物館。

詳しいレポはまた後程UPいたしたいと思いますが、この「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」のコーナーは実に圧巻でした‼

壁一面にずらりとならぶ銅剣たち。

埋納当時はこのように金色に輝いていたと考えられております。

こちらは発掘された時の色ですね!

中には銅矛も。

銅矛は根元が膨らんでいるのが特徴でして、ここに柄をさして武器にしていたといいますが、次第に大型化し、祭器目的が主流となったそうな。

謎多き遺跡ですが、「何の目的で?」は徐々に解明されつつあるみたいで、ジオラマで再現されておりました。

銅剣の埋納された場所のすぐ上にテラス状の平面があり、そこでシャーマン(紫色の服を着た人物)が祈り、祭祀を執り行っていたのではないか、という説が現在のところ有力なのだとか。

 

・・・しかし何故この量(;・`ω・´)・・・。

 

ちなみに今回は行けませんでしたが、荒神谷から直線3.4㎞の雲南市加茂町で、平成8(1996)年に今度は銅鐸が39個も発見されております(加茂岩倉遺跡)。

荒神谷と同様丘陵の斜面から出土しており、両遺跡の関連性が注目されたといいます。

荒神谷遺跡から出土した銅剣の大半には茎(なかご)に「×」印が刻まれており、一方の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸14個にも「×」印が刻まれていたといいます。

近くの西谷墳墓群も含め、「神の国」出雲の謎を解明する鍵となりそうです。

私を荒神谷まで乗せてくださったタクシーの方が、

「この辺りはねぇ、建設が進まないんだよ。ちょっと掘ったら何か出てきて、すぐ建設がストップになってしまう。だから、下手に掘れないんだよね・・・」

とおっしゃっておりましたが、その口調はどこか誇らしげでした。

 

まだまだ地中に眠っているであろう「宝の山」を、地元の人たちは守り、そして信仰してきたのでしょう。

 

 

大発見もロマンが広がりますが、地元の「誇り」を守り、そして地元ならではの観点で語り継いでいただきたいなということが正直な気持ちでした。

 

 

 

 

念願の荒神谷遺跡、来れてよかったです‼

v(。・ω・。)