和歌山藩主徳川家墓所 | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは!

本日は父の日ですね!


私は父上にビールセット←(自分も飲めるから(笑))をプレゼントしたのですが、何やら父の日特典でオマケがたくさんついてきて、父上も喜んでくれました(笑)

どうやら父上も今日はビールが貰えると思っていたらしく、あえてmyビールを買ってきていない模様でした。いつもは冷蔵庫にスタンバイしてるのに(笑)



ということで、本日の史跡巡りレポは熱愛人物である徳川家茂さまのお父上・徳川斉順殿の墓所もある和歌山藩主徳川家墓所(国指定史跡)参りたいと思います☆

・・・父の日にグッドタイミング(笑)


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長保寺多宝塔の裏手に、和歌山藩主徳川家墓所に通じる石段があります。

こちらを登ってゆくと、墓所に到達します。


長保寺は寛文6(1666)年に紀州徳川家初代藩主頼宣(よりのぶ)により菩提寺に定められ、背後の山の斜面に約1万坪の広大な歴代藩主廟所が造営されました。

「周囲が山に囲まれ、要害堅固である」

という頼宣の言葉が残されており、万が一の時の陣地として利用されることも考えられていたそうです。


墓所には将軍となった5代藩主吉宗・13代藩主慶福(家茂)の2人を除く13人の藩主や夫人他の墓標28基および供養塔2基・石灯籠330基が建っており、荒らされないよう用心するため、字の書かれていない墓標も存在します。




はい。

すんごく広大でした(笑)


お目当ての人物の墓を探すのにこう案内パンフレットを食い入るように見ながら歩いておりました(笑)

やはり訪れる方が少ないためか、草が生え放題で蚊もブンブン飛んでおりました(そして噛まれた(TωT))



今回は、紀州藩主の中で主要な人物の墓所をご紹介いたしたいと思います。







初代 頼宣


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初代徳川頼宣<とくがわよりのぶ>卵塔

(1602~1671)

徳川家康第10男。

享年70

法名:南龍院



十四代 茂承


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十四代徳川茂承<とくがわもちつぐ>

(1844~1906)

伊予西条藩より養子になる。

享年63

法名:慈承院







紀州藩初代&最後の藩主ですね!

茂承殿は家茂(慶福)さまが将軍家へ養子となったため、そのあとをついで藩主となっております。

家茂さまが将軍となったのちも年が近かったためか、親交があったと言いますね!



そして


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(管理人的に)メインの方々。



十一代 斉順


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十一代徳川斉順<とくがわなりゆき>

(1801~1846)

11代将軍徳川家斉の9男。清水家より養子となり、紀州家を継ぐ。

14代将軍家茂の父。

享年46

法名:顕龍院




家茂さまの顔の知らない父上です。

・・・というのは、斉順さまが亡くなったのが弘化3年の5月8日。

そして家茂さまが生まれたのが5月24日。


まるで入れ違うように家茂さまが生まれたわけです。

当主を失い、悲しみにくれている紀州家にとっては、家茂さまの誕生はこの上ない喜びだったと思います。


ただ、斉順さまが亡くなり、家茂(幼名は菊千代)さまが生後間もないため、12代目は斉順の弟が継ぐこととなります。



十二代 斉彊


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十二代徳川斉彊<とくがわなりかつ>

(1820~1849)

11代将軍徳川家斉の25男。

清水家から養子として迎えられる。

享年30

法名:憲章院





家茂さまにとっては叔父にあたる方です。

いわば父がわり・・・?


しかしこの斉彊殿も30歳という若さで亡くなってしまうため、家茂(この時は慶福)さまは4歳で13代藩主を継ぐこととなるのです。





ちなみに家茂さまの正室である和宮さまも父知らずなのです。

互いに父の顔を知らずに生まれてきた者同士、分かち合う部分も多かったのではないかと思いますね!








生前は父に甘えることのできなかったお二人。

向こうの世界では父上に会えたかな・・・と思いながら手を合わせて参りました。。。









ちなみに、

『徳川家茂とその時代展(江戸東京博物館2007)』

の図録には、幼い頃の家茂さまの言葉が掲載されております。


というのは、10歳にも満たない紀州藩主時代、家茂(慶福)さまが無邪気に発した何気ない言葉がどうやら側近の紀州藩士によって書き伝えられていたようで・・・(笑)


そのうち実に可愛らしいと思った言葉が、


ヲヤヲヤ、ウザウザト目高ノ様シヤ


という言葉です。


家茂さまが紀州藩を相続した4歳の頃、まだ幼年であったため公の場に出ることはほとんどなく、幕府使者への応対は分家の伊予西条藩主松平頼学(茂承の父)が勤め、藩主拝礼の際には家老が代行を勤めていおりました。

しかし成長するに及んで、見習いを兼ねて老女付添いで江戸藩邸の表書院に臨むこともあったといいます。


ある礼式の際、家中数百人が平伏し、御礼を申し上げた時、家茂さまが思いついたように


おやおや、うじゃうじゃとメダカの様じゃ(σ・∀・)σ


と何気なく言ったそうです(もちろん悪気はない)。


これには無骨の藩士らも意表を突かれたようで、退出時に

「我らのような古老の者も、まだ乳臭い殿様にメダカ扱いされてしまった。さてさて末頼もしいものよ」

と言い合ったといいます。





このように幼き家茂さまは藩祖頼宣の再来かと目され家臣に慕われ、家中一同その成長を心待ちにしていたそうですが、その矢先、安政5(1858)年。13歳にして将軍家定の養子となり、江戸城西の丸に入城したのです。

紀州藩主より8代将軍となった吉宗の例もあることから、家中は喜んだそうですが、一方で名残惜しいことこの上なかったと言います。


結局家茂さまは藩主として一度も紀州入国を果たすことは無かったものの、長保寺には家茂さまの夜着の断片や、子犬豆人形が奉納されております(こちらは長保寺HPで拝観可)☆






・・・何だかやはり熱愛人物にゆかりのある史跡巡りは一味違いますね!

お父上の墓所に詣でることが出来て、大変嬉しかったです!


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・・・だいぶ話が逸れましたが←(笑)、こちらが廟門になります。


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江戸時代に建てられた御霊屋です。

廟門を出て御霊屋を通り、出口に至ります。
















ちなみに家茂さまのお墓はこちら の記事をご参照のほどを☆

次回の史跡巡りレポは紀州藩55万5千石の居城・和歌山城参りたいと思います☆