こんばんは!
・・・台風4号、鹿児島は見事にそれた模様で、台風とは思えないほどの晴天と無風状態でした(笑)
ただ油断は禁物ということで、この後ろにまた台風5号がいるみたいで、このままいけば九州は完全に直撃ですorz
また用心したいですね!
台風4号もまだまだ近畿や関東の方へ向かっているみたいなので、周辺地域の方々、どうぞお気を付けてお過ごしくださいませ!(>_<)
ということで、本日の史跡巡りレポ参りたいと思います。
本日は和歌山城のレポです。
和歌山城は写真が多いため、
天守編
周辺遺構編
石垣編
西の丸庭園編
の4テーマに分けたいと思います。。。
まずは天守編です。
天正13(1585)年、豊臣秀長は兄秀吉の命を受け和歌山城の築城にとりかかります。
しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地へ戻ることは無かったと言います。
翌年天正14(1586)年に秀長家臣・桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城すると、桑山氏は14年の在城期間中に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めたと言います。
そして慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにおいて、軍功のあった浅野幸長が37万6000石を領して和歌山城の城主となります。浅野氏は在任19年間中に二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々と行ったと言います。
やがて元和5(1619)年、浅野氏が安芸国広島へ移封されると、徳川家康の第10子徳川頼宣が55万5000石を領して入城します。
以後和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城となり、「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役目を担うことになるのです。
頼宣入城の際には銀2000貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施されたと言います。
これらの政策はその後250年間続く和歌山城の繁栄の基礎となるのです。
本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形態が虎の伏した姿に見えることから)の頂上に位置する平山城で、東部の本丸御殿と西部の天守曲輪で構成されております。
・・・ちなみに伏している虎の像が建っておりました(笑)
こちらの像は昭和34年に建てられた2代目だそうで、初代は太平洋戦争の際供出されたそうです。
目がギラっとしていたので、遠足中の子供たちが怖がっておりました←
本丸御殿は朝の期には二の丸と呼ばれ、藩主の日常生活が営まれたと言いますが、徳川期以降はその機能を失い空御殿になったといいます。
天守曲輪は大天守、商店主、御台所、乾櫓、二の丸御門櫓、楠門を多門で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立式天守となります。
ということで、天守をぐるっと一周してみました。
↑乾櫓です。
大天守・小天守、そして櫓などがぐるっと多門で結ばれておりましたね!
江戸時代初期の天守は、弘化3(1846)年の落雷により焼失してしまいます。幕府は通常城郭再建は許さなかったのですが、和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城であったがために特別に許され、4年後の嘉永3(1850)年に「有形の通」に再建されたといいます。
ところがこの再建天守は昭和20(1945)年に戦火を蒙り、再び焼失してしまいます。
その後10数年間は天守台のみの姿だったと言いますが、和歌山城再建を望む市民の熱意によって、昭和33(1958)年に鉄筋コンクリート造りの三重三階の天守が復元されたのです。
向かって右が大天守、左が小天守です。
現在中は博物館となっており、城の名宝や歴代藩主の遺品などが展示されておりました。
・・・ちなみに家茂さまの父上・斉順殿の書画もありました!
絵画の方も実に素晴らしく、教養深さが伺えました。
・・・さすがに家茂さまのは無いよな・・・と思っていたら、何と!藩主慶福時代の自筆の書状が展示されていたのですΣ(・ω・ノ)ノ!
将軍となった後の「家茂」の花押は何度か見たことがあるのですが、「慶福」の花押は初めて見たので、一時展示ケースにへばりついておりました←(不審者)
思わぬ収穫!
テンションが倍増しました♪やっほいv←
・・・天守のある城には必ずある「全国のお城情報コーナー」は、小天守にありましたネ(笑)
そして天守の最上階から見た風景です♪
遠くに紀ノ川が見えます。
和歌山市街地が一望できます☆
和歌山城の鯱も、強そうなお顔立ちでした←
上から見てもなかなか堅固な要塞が伺えます。
ということで、次回は周辺遺構編参りたいと思います。。。
ニュースを見ていたら、和歌山の方も台風の直撃を受けたそうですね!(>_<)
被害が出ないことをお祈り申し上げます・・・