こんばんは!
明日はお休みの管理人デス♪
本日は警備のおじさまと歴史トークで盛り上がりました(笑)
やはり歴史好きの集まる職場なため凄く博識のある方が多いのですが、そのおじさまは旅に関する情報も豊富にお持ちなので、色々参考になりますね!
流れに流れて思わぬ所で秀頼の話が出てきた時には大ハッスルでした(死)
すみませぬ・・・orz
ということで、本日は地元鹿児島の史跡を少しご紹介☆
鹿児島市からは少し距離がありますが、霧島市の国分舞鶴城跡のお話です。。。
国分舞鶴城(国分新城、国分御屋形)は、慶長9(1604)年頃、島津家久に権力を譲った島津義久が、隼人にある富隈城から移り住み、晩年を過ごしたとされる城です。
島津義久については以前「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていたことは記憶に新しいですが、彼は島津家第16代当主で、島津貴久の嫡男でございます。
島津義久(1533~1611)ははじめ「又三郎忠良」という名を名乗っております。
「忠良」。
実は義久にとっては祖父にあたります、島津日新斎忠良と同じ名前です。
義久は、幼少時代は結構おとなしい性格だったらしく、周囲から世継ぎとして疑問の目を向けられたこともあったといいますが、日新公は彼を「大将の器にあり」と期待していたといいます。
それ故か、義久はかなりのお祖父ちゃんっ子だったといいますね!
島津日新斎忠良は、後に薩摩の教育精神となる「日新公いろは歌(以前全文ご紹介しております。)」という教えを残しておりますが、義久もそれにあやかったのか、舞鶴城の前には「島津義久公伊呂波歌」と刻まれた石碑が建っておりました←
(義久公伊呂波歌)
人のよき人のあしきをみてハわか
身をみかくへき鏡ともせよ
・・・日新公いろは歌にも
善きあしき人の上にて身を磨け
友はかがみとなるものぞかし
といった似たような句があり、この二つ、見比べたら意味合い的にもほぼ同じでいかに義久が日新公をしたっていたかが窺えましたネ!
・・・人はどうしても他人の粗探しをしてしまうもの。
人のいい部分も悪い部分も全て己の身の上で学ぶべきことである・・・何だかグサっときますネ。。。←
そしてこの石碑の建っている背後には石垣がずっと広がっております!
この辺り一帯が国分舞鶴城跡です。
現在は小学校となっておりますね!
義久がこの城に移った主な理由に隠居説がありますが、実は関ヶ原の戦いの後、徳川方の侵攻に備えるためではないかという説もあるといいますね!
実際関ヶ原の戦いで西軍として出陣したのは義久の弟・義弘。
西軍が敗北し義弘は俗に言う「敵中突破」にて家康の本陣を突っ切り、薩摩へと戻ってまいりますが、その戦後交渉をしたのは義久だといいます。
現場は弟たちに任せて自分は城で指揮をとっていた(そして秀吉に降伏)という義久ですが、薩摩・大隅・日向の三国を、改易も領地削減もなくそのまま守り抜いたという手腕こそが、義久の最大の見せ場だったのかもしれませんね!
華やかな舞台は弟に、そして自分は影で・・・というところ、なかなかのものデス←
そして義久は1611年に79歳の天寿をまっとうしますが、その辞世の句が紹介されておりました。
世の中の 米と水とをくみ尽くし
つくしてのちは 天つ大空
義久の死後には三女の亀寿姫(持明院)が住み、さらにその後は地頭の館となっております。
江戸時代を通じ鹿児島市の鶴丸城から舞鶴城に藩主が移るという構想が度々あり、幕末には島津斉彬の命によって国分の測量も行われたといいますが、斉彬の死により頓挫したというお話も残っております。
明治10(1877)年の西南戦争ではここに政府軍の参謀山縣有朋の屯営所がおかれたといいますね!
そんな舞鶴城。
現在は石垣や堀しか残っておりませんが、当時はこのように広い城だったといいます!
ちなみに城の南側には碁盤目状に城下町が形成されております。
これは義久が見た京都の町割りを参考にしたとされ、現在もその名残をみることができます。
石垣をずっとたどっておりますと、なにやら目を引く鮮やかな赤色が!
こちらは「朱門」とよばれ、霧島市の指定文化財となっております。
舞鶴城内陣の門であったものを市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久より拝領したものと伝えられるようですが、記録がないためはっきりとしたことは分かっていないのだといいます。。。
現在は小学校・高校が立ち並んでおりますが、悠久の歴史ロマンを感じるには十分な史跡でございますね!
ちなみに国分には二ヶ所、義久の墓と伝えられる石塔が立っております。
義久の墓は鹿児島市の福昌寺跡、国分の金剛寺跡、そしてこちら徳持庵跡の計三ヶ所にあります。
こちらの墓は、「大国豊知主命」「慶長十六年辛亥正月二十一日」と刻まれております。
明治の廃仏毀釈によって徳持庵が破壊されたため、そこにあった金襴の袋に納められていた分骨を、明治八(1875)年に新たに埋葬した墓であるといいます。
そしてこちらは金剛寺跡の墓です。
こちらには義久の抜歯が納められているといわれております。
三ヶ所のお墓・・・それは影ながら大きな役割を果たしてきた、義久のありのままの姿が窺い知れるようにも思いました。
ということで。
最近発売された「歴史魂」の某四コマ漫画にて義久&義弘が取り上げられているのでぜひ☆←(いきなり何)
- 歴史魂 2011年 07月号 [雑誌]/著者不明
- ¥680
- Amazon.co.jp