優しいって何なんでしょう。
優しさって相手が好むことばかりしてあげること、嫌がることをしないのが、優しいのでしょうか?こうして育った子がもし都合の悪い対応をされた時、気に入らなければ衝動に任せて怒り、襲い掛かることはどうぶつなら当然の事です。
また怒らせないようにと、顔色を伺い「機嫌が・・」と言った時点で、もうその人は犬に従っているのです。その子は“何もいけないということは教えられていない”ので、気に入らなければ、人間を攻撃しダメージを与えれば恐怖に屈して自分の思い通りにできることを
“教育”したことになります。これはもうすでに「教育」ではなく「狂育」です。
犬に限らず、人間の子育てにも共通していると思います。
怒らせないように、嫌われないようにすることで、“良い親”という自分の満足を保持するために何でも相手に合わせる、意見を言わないのは、相手を大切にする愛情ではなく、自分だけが満足する自分勝手になっているのです。
それを無意識に犬も子どもも感じているのだと私は思います。
だから、ムカつく、腹が立つ、苛立つのです。「どうしたらいいか?教えてくれよ!」という心の声が私は暴れたり、威嚇したり、襲いかかるという暴力行動だと思うのです。
社会で共に生きるということは不都合の連続で、自分が思うようにはならない社会で共存していかないといけません。しかし、それを“トレーニング(鍛え育む)”して、生きていくために必要な礼儀(ルールや他者に迷惑をかけない行動)を身につけさせるために“教育”をしていくのが、家庭という場であり、親という存在だと思います。
“何の為の親なのか?”ここに立ち返って、お利口とか、良い子ではなく、「何が必要か?」目的を取り戻し実践していかないといけない時だと思います。
勉強(学力)だけで大人になれるのでしょうか?学力の優秀が人生の優秀ではないように、犬も学力だけで成犬になれず、学力の優秀が犬生で優秀ではありません。
子が成人に、犬が成犬になるには、学の他に「生き抜くための力と術」が必要になります。
学力が優秀でなくても、生きることに優秀ならそれが共に生きる上では大切だと思います。
その中で忘れられつつあるのが「自由」です。「好き勝手、やりたい放題」が自由になっていますが、自由は自由です。好き勝手ややりたい放題ではないのです。
自由共生の社会で生きるためには、相手と闘いにならないために抑制する力が必要ですし、協調する力も必要ですし、自分で考えて嫌、苦から抜け出し好き、快、楽しいを得るために行動できる力を養わないといけません。これらを「自由力の3つの力」と言いますが「自制力(心)」、「協調力(心)」、「自発力(心)」になります。
この3つの力と心があってこそ、初めて自由共同生活が営めることができるのです。
それを実現するためにしつけ(教育、学習)やトレーニング(様々な力を鍛え育てる)、レクリエーション(共同活動)で家庭犬として共同自由共生を共にするために、家庭犬のしつけトレーニングを行っていくわけです。奴隷のような愛玩にするためでもなく、いうことをきく、お利口?のためでもなく、大人しいためでもありません。
いい子も、何が良い子で、何が悪い子なんでしょう?ほとんどは「親にとって都合の良い子、悪い子」で、社会にとって「良い、悪い」ではありません。
そして、別視点からプラスすると、ストレス適応力が必要で、それは同時にリラックス適応力に繋がっていき、生きていく上でストレスケアは避けられない課題ですが、このストレスケアを忘れ、エデュケーションや学習の科学にばかり傾いてしまい、精神性や心の育みをないがしろになっている現代の状況こそを、今一度見直していく時だと思うのです。
社会に出て自分の意思、意見を言えずにもじもじしている子がいい子でしょうか?
自分の意見も言えて、相手の意見も尊重し、「相互」を大切にできる子がいい子でしょう。
親の都合でいい子、悪い子は、あくまで親の個の自己満足であり、社会に視点がないことが「すべての問題の原点」だと感じています。
教育に体罰や厳しさは必要ありません。負荷をできるだけ減らし脳がより効率よく働くようにサポートしていくのが、陽性強化法の一つです。
鍛え育むになった時は、「鍛える=何か負荷(おもり)」が必要です。
そのおもりとは「不都合、不快、嫌悪、思い通りにならない苦痛、拘束」などで、これらは負担になるので、その負荷を「ストレス」と言いますが、その「ストレスがないとトレーニングはできない」のです。ストレス負荷で心やメンタルを鍛えていき、そのストレス負荷に耐えられる力がついてくると、「負担や苦“が”なくなる」のではなく、「負担や苦“で”なくなる」のです。そうなれば、その受けた状態ならキレる必要もなく平穏でいられます。
これが平常心を保つ、常に恒常性を維持できる生きる力になるのです。
ストレス負荷から平常に戻れる力を「レジリエンス」と言います。
このレジリエンス力こそ、家庭犬で必要とされる力で、最近は人間の分野でも注目されていえる育児や病気の治療にとりいれられている“ストレスケアマネージメント(トレーニング)”が行われ始めています。ストレス適応に注目した視点のアプローチとサポート法で、別名を「レジリエンストレーニング」とも言います。
こうした力を育む時に大切なのが、未来を見据えたメリットを考えて今どうするか?を考えることです。「かわいそう・・」私はこの言葉を聞く時、今しか考えていないと出る言葉だと思います。今だけならかわいそうです。しかし、今かわいそうと楽させて、未来にもし、自分たちに不利益なことをしてきた時、可愛そうなのは犬ではなく飼い主さんであり、 その結果、犬も犠牲になります。野生動物にエサをあげる人がかわいそうという方と同じですが、これで野生動物が人間から食料がもらえると生活圏に出てきたり、自分で狩りすることを忘れさせてしまい、結果、その動物を射殺させるようにしていくのです。
これが甘やかす心理行動です。
可愛いからとやりたい放題させて、何も教えずに可愛がって、甘やかして今だけ楽しみをしていますが、これが大きくなってくると飼い主さんに反逆的、攻撃的になってくると態度が急変して、「この犬が問題だ!」となり「この犬をなおしてほしい!」と考えるようになった時、言葉や気持ちで、犬を虐め心潰す人になっているのです。
甘やかした人ほど、「自分は悪くない」と平気で裏切ります。誰かに渡して逃げるかも。
だから、犬が悪いとして、犬をなおそうという意識になります。
甘やかす人は、相手を大切に想っていない、自分勝手な人で、相手を都合よく利用しているだけで本当に相手のことを大切にしているとは言えません。
犬というどうぶつを上から目線で見て、「弱いいきもの」という意識が「かわいそう」なので、だから、強き犬という生命に痛い目にあわされるのです。
犬をなめている、甘くみているから怪我をしたり、苦しめられますが、彼らのすごさを認めていたら、気を付けるししっかり教え育て、鍛え育てて、安全に共同生活ができるようにできます。自分自身を守ることの責任もしっかりとできて、相手に攻撃させない、相手を攻撃しない自分になれるのが、愛犬家と呼べる人たちです。
犬好きなだけの人は、犬愛好家であり、ファンと一緒です。
犬は甘く扱っていたら猛獣になります。人間よりはるか強く簡単に殺傷できる力を持っているのです。可愛いと呼べる犬にするために、動物性の抑止し、自制や協調のできる力を鍛え育てていき、攻撃しない、攻撃されないようにしっかりと教え育て、鍛え育て、そして刺激ある生活として散歩やレクリエーションのように共同活動を一緒にしてあげるのです。
それは、第一は自分の楽しみの為に。次に犬も楽しめるように。都合が悪くなるとだれかにもらってもらえば幸せにとすれば自分が罪から解放されるのも身勝手な心理行動です。
本当に優しい人は未来の結果、自分を守れる自分に優しい人です。自分勝手ではなく、自分に危害を受けないように守れる優しい人です。それが、未来で犬を問題扱いしない優しい人になれます。こうした方は、未来に向かって楽しめるように、今必要な力を養うサポートをして育てる実践ができる人です。
自分を犠牲にして、犬のやりたい放題にさせるのは、優しい人ではありません。かわいそうな人です。自分が楽しみ、犬にルールや様々な制約の中で苦しみを軽減させるために鍛え育み、各家庭の適正生活行動を教え育てることで、犬も問題呼びしません。
