あけましておめでとうございます🎍
2021年、令和3年もよろしくお願い致します。
今日は書初めの日でもあるので、ブログを私は書初めにします。
長文ですが、ゆっくりじっくり読んで頂けたらと思います。
2021年がスタートしました。昨年は前代未聞の世界パニックがおき、新年を迎えてもその脅威は続いております。こうした出来事は決して無意味ではなく、均衡が崩れることで疫病というものは発生してくるので人災とも言えるかと思います。
大きく見渡してみますと、本来の自然生態の森はどんどんと失われ、植林によって森の再生をしようとしても人智では及ばない大きな法則が働いています。
そうなると森が崩れると動物たちの住処や食料が不足し、人間の居住地に近づいて食料を得ようと動物は生きるためにそうなっていきますが、それによって、動物と人間との距離が近くなりすぎて、そこから様々な感染症もうまれ人間も生活が脅かされていくという、すべてが負のスパイラルになっているように感じます。
人間だけ、動物だけ、森だけではなく、すべてを守るという視点で考えていくことこそが本来の共生だと思いますが、これは自然が崩れて始まったというよりも、人間の欲得に走った結果、自然が破壊されていき、生態系が崩れ、元々は人間と動物の間にあった境界線もなくなり、自分で自分の首を絞めることをしているのは、誰でもなく自分自身という人です。
そうしたことに気づいて欲しいと年末に禁足地になっている入らずの森に特別足をいれさせて頂き、人が一切触っていない森(杜)の姿をよく目に焼き付けて頂き、自分自身の生きるとは?を考えていただければという想いに心打たれた年末でした。
そうした中で身近なことを考えてみても、あまりにも便利すぎる社会に生きる私たちの中から「工夫」「努力」「不便利に耐え忍ぶ」という「心」や「精神」が消えつつあり、何においても「怠惰」になり、それが「満たされない」という状況を作り出して「不満いっぱいの社会」になってきています。ストレス社会と聞くと人間は負荷が多いように感じますが、その逆で便利で怠惰していく心と精神と知恵を磨かず、「弱化」しているからこその
「ストレス社会」なのです。
「ストレス=悪=排除」するという考え方が益々、ストレス耐性を弱めて、適応できなくなっている弱った人の在り様です。
「除菌・抗菌」も同じで、菌とバランスを保って共生することで、菌のおかげで免疫力がついていきますが、菌がないと菌に対する免疫が弱化していき、菌に負けてしまう人の怠惰なのです。「菌=悪」という考え方が生んだ現象でしょう。
「ウイルス」を考えた時、彼らは生きてはいないかもしれませんが、彼らは宿主の細胞に入り込んでそこから繁殖して、どんどんと増殖していくところを考えるとウイルスも生きる戦略で闘い、強く、賢くなっていきます。これらは「悪」と片付けたらそれまでですが、「私たちが見失っていることに今一度気づきなさい」というメッセージのようにも感じます。
私たちも共存の中で鍛えられて強くなって生命力を高める努力が必要です。
前置きが長くなりましたが、人と人間って何が違うんだろう?と元旦に考えてみました。
自分だけを考えた利、得、損の世界が「人」だと思います。自分だけでなく、自分と相手が存在することを意識して、相互の利、得、損などを考えると自分と相手には必ず「空間」があり、その「間」を大切に生きる人が「人間」だと思いました。
そう考えると機械、ロボット、サービスは自分様様にしてくれる心地よい存在です。
提供者を労わることなく、自分だけが利を得る事に満足し、相手に対しての思いやりを見失い、自分に利を与えなくなると「不用品(物)」として、情もなく捨てるのです。
物に対してだけかというと、怖ろしくも、生命に対してこれが当たり前になっているのです。
この地球から人間が消えている・・人だけの地球になりつつあるということです。
しかし、犬はデジタルでも便利でもない、心、意思、感情、命、知のある生命です。
機械のように便利にはさせてくれません。自分だけの利で可愛がっていれば、必ずその代償は自分に返ってくるのです。それが「共生問題」でしょう。
「犬の問題行動」という表現がありますが、犬が問題ではない行動なので、私は「問題行動」という言葉を使いません。人と犬が共に共同生活するから起こる問題なので、
「共生問題」といつもいいます。
私たちが見失っている「相互の心」を取り戻すのに、犬はすごく大切な存在だと私はおもいます。気づきをとにかくいっぱいくれるし、自分の写し鏡のように示してくれるから、相手を思いやる心と実践なくして、「苦・嫌・不都合」が消えないので、私たちはその「苦・嫌・不都合」をどうにかする為に「考える」ことをします。
どうしてそうなるか?をまずは理解し、自分自身がすべき課題に取り組むことで、自分自身を守るために相手を理解し、相手に伝えることをします。
しかし、相手は日本語の繋がらない、文化も習性も常識も異なる種です。簡単にはこちらの意図は伝わりません。もちろん、それは犬にとっても同じです。
人は相手を理解し、そして理解してもらう努力をする、工夫をする、何度も怒らず教えていくことを繰り返していき、犬も人の意図を理解し、そして犬は始めから自分の意図を人にアピールする努力は人の数十倍しています。「こちらの意図を飲み込まないと痛い目に遭うぞ!苦しむぞ!」と言わんばかりにこちらにせめてきて、人はそれに屈して犬に合わせた方が楽だからと降服して生活を壊されます。
犬も自分の利のある環境を手に入れたいのです。人も同じです。
だから、クラッシュ(衝突)がおきますが、クラッシュも相手がいるから起こることでいなければクラッシュさえもおきません。これが「人と犬の共生問題の現象」です。
客観的に観るとこうした状態ですが、犬だけを知り、見るだけで対応していくとここには「間」がなくなっています。思いやる心の欠如の実践は自分の利のために犬をコントロールしていくことを優しい方法なら良しとして行っていくようになります。
学習理論という科学で証明された「操作」をしていくのです。そして人の都合よくなればよしよしと相手を認める。ここに本当に「褒め」は存在しているでしょうか?自己満足による「喜びを表現」しているだけで、犬にではなく、「自己満足」であり「褒め」じゃない。
私はこの業界に入る以前に、犬のしつけ、トレーニングに対して違和感を感じていたことは、このようなことでした。
しつけやトレーニングは「必要」という私の考えですが、お互いにとって「どう必要であるべきか?」が今でも変わっていない課題で、これは人と犬に限らず、例えば日本人と異国の人との共同生活においてもまったく同じ「課題」を抱えます。
近代の日本人は多文化共生に慣れていない、馴れ浸しんだ同文化共生のぬるま湯に浸かっていますが、そろそろそのぬるま湯から抜け出さないといけない時期だと思います。
個の尊重重視の現代から、今一度相互重視の視点で向き合うことが必要だと思います。
犬がいて、「間」ができ、ここの間で苦労させてもらい相手を思いやる、理解する、自分も理解してもらえるように伝える、教え育てることができ、人間社会で共同生活できるように成長させながら、自分も成長させてもらっている。
そして互いに生きていく上で様々な負荷に潰れないように強く生きられるように鍛え育むことも必要で、これも「共に」になりますし、絆という自分と犬との「間」を紡ぐ関係も「共に」になりますので、これらすべてを統括すると「共育」になります。
ここに人は異なる種との「間」を築くと、「人」から「人間」に成長します。
特に日本人は「間」を大切にしてきた精神があるので、それを棄ててはいけないと思います。武道でも「間合い」が重要なように、相手との間という距離や間を合わせる(合気)など、間合いは「阿吽の呼吸」と言われるように、呼吸であり、「生きる」ということであり、
「コミュニケーション」が「間合い」そのものです。
家庭犬のしつけトレーニングは「間を育む」ものだと思っているので、犬だけを預かるという方法ではなく、飼い主さんという人と愛犬という犬が共に通学して、共に取り組むことが必要なのです。絆も目には見えません。関係も目に見えませんがこの「空間」は見えないけど存在している大切なものがたくさんあるのです。
「行動」ばかりに目を奪われず、この「間」に目を向けて取り組むのが日本人の人間道のように思います。日本は「教」ではなく「道」が多いんです。
歩まなければわからないし、形一つ一つに無駄はなく、すべてに意味があるからこそ、戒律や教典がなくとも律することができた日本人の生き方そのものの伝承館が「神社」だと思います。神教ではなく、神道なので。日本人は「無宗教」といういうのは、「道」だからです。外国の真似事に目を奪われていても、自分は日本人です。日本人としての自分を見つけるために異なる形が必要でそれが留学などで得る大きな収穫で、海外で日本に気づき、日本人としての自分を発見できるのが、留学の本当の収獲だと思います。
この「間」を大切にしていくことこそ、人間と犬との共同生活が築くことができ、営めるわけですが、この「間」に「隙間」があるとそこに入るのが「魔」です。
「魔が差す」とは、ちょっと気を緩めたり、結びをしっかりとしていないところをいつも狙っているのが魔で、「間」に「魔」が入り込むと、人の心や犬の心にいたずらをして、怪我、殺し合い(攻撃)が起ってしまいます。人間は優しく化けた「慈悲魔」になると言われ。慈悲魔の発する言葉は「かわいそう」です。何かあると「かわいそう」と言い出したら、心が慈悲の心から慈悲魔という化け物になってしまっている時です。そうして、生きる力を奪っていき、生きられないように弱めて何もできなくさせると苦しくて動けなくなる、叫ぶ、暴れるように犬がなってしまいます。これは優しいではなく、「苦しめる化け者」です。
生きるとは色々な負荷に耐えながら鍛えられて強くなっていくことで、生きることができる力を養っていくのです。様々な制限の中で耐える力を鍛えることが必要だからそれが身につくまで鍛え育てるのが優しさです。力がつけばサポートしなくても自分で適応できるので、苦しくなくなります。これが“生きやすくする”「愛ある育児」です。“かわいそう”はその逆でどんどんと生き苦しむように生き辛くさせているのです。
こうした自分を見失う魔から間を守らないといけません。
これも“問題行動”ではなく、“間(魔)の問題”です。
親しき仲にも礼儀ありともありますが、相手との距離、時間、空間の間合いを思いやるのも大切な「間」です。最近は、人間は犬に近づきすぎて、彼らの安心の距離、時間、空間与えず、絶えず緊張状態にさせてしまって問題になることも多いです。
これも程よい距離(間)を保ててこそ、「人間」です。
人間に成長すれば、犬との共生問題は起こらないのです。人と犬のそれぞれが自己満足の要求で戦うだけで、人間がいたらその「間」を整えるので、バランスが保てれば共生問題は解決されます。犬も人に近づきすぎていることで、人の生活を壊してしまっています。
人だけ、犬だけではなく、お互いに「間」を大切にしていけば共同生活は種を超えた有意義な学びと経験になります。
“攻めず攻めさせず”・・これが人間と犬の共に生きる「間」です。
犬の心配やかわいそうといい、自分を護ることを忘れている人が多く、自分を護る責任が一番大切なスタートです。攻めさせない間があれば咬む、吠えるなどの問題で苦しまないので。
自分たちの「空間」を無防備に犬というどうぶつを放つことは、自滅行為そのものです。
かわいそうと犬をかばう人ほど、かわいそうな人になっているのを嫌ほど見ています。
犬も大切ですが、自分をもっと大切に守り、そして犬も護れる「間合い」のとれる「人間」にを今年の皆さん目標にして、人間と犬の共同生活を築き暮らしを楽しんでください。
