私の考えている延命治療と生きる | 家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

2021年11月でトレーナー&カウンセラー歴22年。
”イヌをなおさずして、問題を解決する”が私もモットーですが、そこに至るまでの様々なわんこ先生(犬達)と飼い主さんと歩んだ気づきのメッセージを楽しんで愛犬と共利共生を築いて頂けたら幸いです。

 まだまだ予断は許さない新型コロナウイルス感染症ですが、消える事はないとは思うので、これからどう共生するか?が大切になりそうで

す。今日は30℃をすでに超えており、これからはマスクの暑さ対策が課題ですね。

 私の愛犬16歳を迎えており、もう生きてきた時間よりも短く旅立ちの方近くなってきています。

15歳を迎えた時に自分の足でまだ歩いて動けていることを目標にしていた11年前でしたが、あれからもう11年経ってその歳を1歳越えました。シニア期の脳トレ、筋肉を動かすことなど、老化を止めるのではなく穏やかに着陸に向けて高度を下げていけるようにしています。

目標は無事達成し、今も筋力は弱ってきたりはしていますが、ジャンプもしています。

 命をどうするか?正直、人間のような浅はかな知恵では決められません。

これに私は正しいとか間違いという裁判はいらないと思うし、何が良くて、悪いかというのも決められないでいいと思います。

最近は何でも白か黒か?思考どちらかが正義で、どちらかが悪になるような浅はかな都合で決めることに意味はないと思うのです。

いのちの終え方がどうであれ、これは私達ではなく本来なら犬がきめることかもしれませんが、わからなくていいこともあります。

”白も黒も”という考え方が、日本人が大切にしてきた「陰陽二相一体」という素晴らしい知恵があります。

陰は悪い、陽は善いのではなく、例えば、陰という失敗や間違えによって、気づいてすべき陽を知ることができた・・と考えます。

逆を言えば”良いと思っていた陽によって、気が緩き、失敗、間違えという陰を得た”となります。

両方ともあって一つというのが、道理で、光の量だけ影があるのです。影を消そうと頑張れば、光も消しているのです。

光がなくなれば影もなくなります。どちらかにしようとするとこうなるのです。

 

影を増やそうとしたら、自然と光も増していく

これが自分です。

自然道理を人間は変えられないもので、こうしたところをいくら科学で変えたとしてもそれは”無理”だと思います。

”有理”を実施していけばいいのです。


 延命治療をするかしないか?

私は自分がそれを判断を迫られたときには、それを考えて残るものが前向きに進むために決めるのが命を迎えたものの責任だと思っています。迎えるのも責任ですが、見送る責任もその時に同時に背負ってこその責任です。
見送る責任を考えずして、迎える責任は果たせていないと思います。

私はパピーを迎えた方たちに死を迎える時の話をするので、縁起でもないと言われることがありますが、永遠に生きる人も犬もいないので、生きるを考えるということは死を考えることをしないとわからないからです。

 私はその決断をしないといけない時、話せない、反応のない子だとしても一度その子と対話をします。

助かる見込みがある上でということなら、お願いすると思う。
明らかにもう治療を行っても機械で命繋ぐだけなら、延命は断る。

旅立とうしているのを寂しいから、生かしたいという自分のエゴで止めて逝かせないのは、どこまでその子に甘ったれているか?を気づいてないとあの世にも行かせてあげないという死んでも死ねない苦しみを与え続けたくないし、それは犬を愛しているのではなくずっと自分を満たすことを大事にしてきた証だと思う。

 

 お別れの時に、自分がその子との生きてきたものがすべて出ます

感謝で見送れるか?もっと私を大事してと逝かせないようするか?

これまでの生き様を鑑観るように自分にきます

だから死を考えて、生きるを考えるが大切だと手前で話したのは、生き様が死の時に愛が変わるからです。

助かる見込みがあるのに、それを何も助ける努力もせずして逝かせるのが楽だからというのは、それは安らかの選択にはならないように思う。助からない苦しみと戦い続けて、治療によって本来なら逝けるのにいけないようにするのならそれは安楽殺を私は選択しますが。

 妻とも自分達のことで話ますが、妻はとにかく延命はするなという。

私はきっと諦めが悪いから最後まで粘ると思うと伝えた。

妻には私の考えも伝えました。

まだ生きられるのであれば、その分は延命を選択するからと。

人工心肺を付けられてしか生きられないのなら、数日だけ時間をもらって整理をして治療を止めると伝える。
 

 生きようとしているのならサポートをする。

生きようとしているのにサポートしないのはエゴになるから。

逝こうとしているのなら、延命を行わず見送りをサポートする。

 

 普段から見るだけでなく、観る、診る、看る、視るで深く総合的に観て冷静に判断したい

その為にはやはり3日あるのなら時間をもらう

3日時間がなければ、それもそれがベストだったと考える。

 

 最近は、生きるのが当たり前、老いないように、死なないでと思う人が増えていますが、生まれてきた意味、何をするべくして誕生したのか?きっと甘やかし、楽するためにこの世に誕生する命はいないと思っています。

皆、魂をより強く、成長するためにこの世の出来事はすべてのトレーニングシステムだと思う

犬をお利口、しつける、従わせるという私達の都合を満たすために犬は生きているわけでもなく、そのためのトレーニングではないと思う。

 生きる強さと成長のために、私は犬は自由に生きる課題を持って生まれ、種の異なる相手と共に生きるという困難に身を置きながら、そこで必要な自制、協調、自発の力を鍛え育ててもらい、規則を受け入れて自分の意思で共同生活できるように修行する。

人間という種と生きる上で必要な行動を教え育ててもらう

共に課題に取り組む活動で自分という存在価値と居場所を築く。

共に生きるってこうしたことが得られることであり、得られるように私達は魂の成長と進化の奉仕だと思います。

 

 子どもでも、犬でも、命であることに優劣はない。

どちらも育みを必要としている命で、迎えて育てるということはお利口のためじゃなく、私達も命の成長と進化を手伝う奉仕として、迎え育てるのです。

自分の愛犬だから・・子だから・・自分の物ではありません

皆、預かった命であり、時間がきたらお返しをするために、役目を果たして見送る責任があります。

 

 愛玩奴隷のような玩具に命をしないように、本来は魂のトレーナーが必要で、人も犬も共にそれぞれの命の課題と成長に取り組むトレーニングをしていくことを”共育”だと言えるのです。

飼い主さんと犬が共に学ぶ場がなければ人間の欲で彼等の命への冒涜がやりたい放題になってしまう。
”邪魔”をするために迎えていたら、彼等の有限の時間がどんどんと過ぎてしまい、目的を果たせずに旅立ちを迎えたら、ずっと邪魔という”魔”に苦しめられて、帰るところにも帰られなくなる。

 自分の犬だから、俺の勝手、私の勝手・・命の私物化をしていることに気が付かないといけません。
現代は私達人間が修行させてもらわないといけなくなり、修行させるために犬が来ているように思ってしまう
本来なら教え育てる存在であるべきだが、今はそれを見失い、犬に教え育てられ、鍛えられて成長しているようにも見える

だから、犬じゃなく、飼い主さんのトレーニングのサポートをし、本来の目的を取り戻さないといけないと私は感じています。

家で脅威や苦痛となる行動を犬がしていたら、自分を傷つける行動を犬がしていたら、その犬をなおすのではなく、飼い主さん自身の心を写し鏡となってお知らせしていると思うのです。

 

 かわいそうとか、心配されるほど彼等は弱い存在でないのに、弱い存在という想いが気の毒となってその犬を弱らせてしまっている

それは同時にその飼い主さんも強いのに、弱い、甘えから立ち上がれず気の毒で自分を自分でダメにしてしまっていることに気付け!とグルグル回って、気づいていない状態を犬は表しているように見える

想いは目にはみえないものですが、未科学かもしれませんが、長年携わる中で犬が何かを伝えようとメッセージを発しているように感じ、それを伝えて、飼い主さんが本来の自分を取り戻した時に、犬の状態も同じようによくなっていきます

 

 咬む問題も多いですが、最近は尾追い行動や自傷行為が増えてきていますが、薬を飲んでないのに尾追いが修まった子たちと、薬を飲んでいるのに修まらない子の違いは、飼い主さんが犬ばかりを”都合というものさし”で良い子、ダメな子と計り、犬のメッセージを消し去ろうとしている実行を続けている改善した飼い主さんは自分の未熟さ、不足に気付き、自分が成長しないとと頑張って見える方は、犬のメッセージを活かしているので、伝わり納まっている

 

 ストレスケアも、生きるということも、知恵が疎かにされて、偏りから陽のみにとらわれて、陰を忘れ、陰を陽へと進むための自立を忘れています。病気にさせる前に、気を病む原因となる”気の毒”を自分から発していることに気が付かないといけない。

延命治療を考える時、こうしたスタートの生き方から大切にしてこそ、どうすべきかもみえてくると思います。

卓上や考えだけでなく、行動を起こすことで改善しながら歩んでいき自分で生きるをしていくことで、延命をどうするかの判断も右も左も認めて決断し、来てくれた命に敬意を持って感謝で見送れると思います。

これが私が犬と生きるということを考え、命と向き合う上での考え方です。

もちろん、これも賛否両論

良いか悪いかは私でもわからない。しかし、自分の選択の意味をもつことで軸がぶれなければ、もしまた変化が必要になっても変われる。

 

まだ変わると思うし、今もわかっていないと思っているので、永遠のテーマとして最後は自分の旅立ち方も考えられるように生きたいと思います。自然という大先生から学び、敬う心をもつことで、感じることができるようになると思います。