夏から秋へと変わりつつありますね。
先週から日が短くなってきたことを感じますし、朝晩はずいぶん涼しくなりました。
今年の夏は何とか無事に乗り越えられたように感じます。
前回の「愛犬の問題に薬は本当に必要か??」の続きになります。
ここでのポイントは「薬を使ってはいけない」とは書いていません。
本当に必要か??を考えることが大切だということです。
日本にいるとこうした思考を考える機会が少ないと思いますが、自分はこうしたいと思っている時に、もし師に止めなさいと言われたらどうでしょうか?
この先生は嫌がらせではなく、自分自身の意思で決めて、自分の選択の責任をもって、こうしたいと言えることが大切だということです。
流行しているから、周りがしているから、先生がそういうから・・ここに自分はこう思うからというのがなく誰かがだからそうするというのは、自分の選択責任から逃げていることになります。
選択責任から逃げるのは、自分が責任を負いたくないという気持ちから起きて当然です。
しかし、これが大人の責任なのです。子どもたちはその責任をまだ担えず親が自主選択の思考力を育まないといけません。
犬に「どうしたいの?」と聞いても、犬は混沌するだけなのです。
犬が薬が欲しいと言ったわけではないし、犬は決められません。
だからこそ、この選択をするにあたっては保護者になる飼い主さんの選択責任によって決めるべきなのです。これを「責任主体」といい、自分の意思で責任をもつことができて、初めて「自由」です。
自由社会には責任主体が基本です。誰かにと甘えと誰かに助けてという意識の依存では、自由社会ではなく、自己主張社会になってしまいます。いわゆる「自分勝手」です。
自由には「社会軸のルール」が存在し、自分勝手には「自分軸のルール」が主で他者との協調はありません。
犬も人間社会で共に生きるには、社会の一員としての責任が生じます。
しかし、犬は人間社会の良し悪しは知りません。その状況で家の中を好き勝手にして放っておくと”混沌”が起こることで徐々に葛藤が起こってどうしたらいいか?どうしたら快が得られるか選択できないところから問題が発生していきます。
何が嫌で何が快か?が判断でき、快の選択が自分の意思で判断できるように何度も教えて成功を積み重ねていき、やっと犬も自由が得られますが、その教えて快の選択ができるように何度も練習していかないと、犬はわかりません。
一緒に生活するなら教育はしないのは彼らを苦しめ、自分も苦しむことに。
何事も今起きている現象に、その現象の対処をするのではなく、その現象が起きる理由と状況を把握することが大切で、自分の原因部分と改善部分も把握し、そこを教えてもらうことを求められたら、皆さんにも指導者にもいい関係と成果が築けます。これが”教習”です。
犬だけを改善して、犬を直そうとする人は、自分という課題を見出していないので、ここでは犬をよくしてもらう”取引”が成立してしまいます。
教習ができると、今度は犬との関係にも”教習”が成立します。
取引は愛犬とも”取引”するようになります。
取引はお客様ですから、自分の都合のいいことを提供しないサービス提供者とみなします。
しかし、人と犬との共生問題の改善は”サービス”ではなく”教習”です。
皆さんと愛犬との取り組みの中で、教え育てるだけ、ケアだけでは対応できない何か”障害”が発生していると判断した時、ここは、”行動診療医の診察と診断、必要に応じた薬物療法”が必要です。
やってみないと、実際にそれがコミュニケーションの障害なのか?心に傷を負う障害でケアが必要か?ただ犬の思うままに育ててしまった育みの障害か?になり、その領域を超えて病気的な障害になった時に行動診療が必要です。
この辺りは、イギリスは連携がうまいですね。手を広げ過ぎないし、任せるのですが、日本は一人で自分の領域を超えて知ったふりしてアドバイスしてしまって、本来の向き合うべき主体性を奪ってしまう。
主体性を奪えば、飼い主さんに依存が起き自分で判断する力が弱まるとサービス提供者にとっては都合のいいお客様になります。
教育業は、主体性を持ってもらい、自分の判断と実践を通じて、専門家のサポートを受けながら行わないといけないので、指導者に何でもハイハイと主体性や意思なく、合わせてしまう、自分の意思表現ができないことは障害になってしまいます。
飼い主さんと犬の自己判断力を高めるトレーニングが、家庭犬トレーナーや行動カウンセラーの役割です。主体性を持てるようにして”責任主体”の意思を持てるようにサポートします。
自分が良い悪いという評価はいらなくて、どの部分を改善していけばいいか?の未来を知るための過去が大切で、未来の為に今をどうするか?を考えることが大切で、自分が良いとか悪いとか必要ないのです。自分も責めなくていいし、自分を正当化することもしなくていい。
人間は神様じゃないから完璧は無理だから。
そして、専門家も”責任主体”が大切です。
トレーナーは獣医師ではないので、教育課程も獣医師になるための大変な課程を受けていない。
理屈はわかっても、実際にそれを診断することはできません。
甘い道ではなく、命を預かり病気を治療し助けることは安易にはできないすごい専門家です。
獣医師は家庭犬トレーナーでも訓練士ではありません。
家庭犬トレーナーになるには、犬と飼い主さんの教育サポートをするために、知識、技術だけでなくその仕事を担うメンタルを鍛えます。とっさの攻撃を受けても冷静に対応できるメンタルがないと、危機的状況に陥った時に、パニックして冷静な判断ができなくなれば自分自身が犬に殺される危険性と常に向き合います。勉強しただけでは、本来の家庭犬トレーナーや訓練士にはなれません。常に医療の分野を向上する勉強でトレーニングや行動観察のスキルまでやるゆとりはないはずです。
そんな甘い道ではないからです。
犬と飼い主さんの共生問題のカウンセラーは、犬と人間の両方の心理行動知り、視察力、観察力、ヒヤリングのスキルと心理的にタフじゃないと情に流されたり、哀れみを持ってしまうと相手をストレス弱化させてしまうので、ぶれない軸を持っていないといけませんし、超細かな犬の行動変化が表すメッセージと人の行動が発する心の状態のメッセージを読み取るスキルは本では勉強できません。攻撃行動を扱う時も人と犬の双方への指導をしつつ、トレーナー同様、もしくはそれ以上の危険な状況におかれても冷静に素早く判断できるトレーニングを受けて、自分の命と相手の命を守れるスキルが必要です。
勉強だけして、方法だけ真似したトレーニングは、形はできますが、その心、意味が提供者がわかっていないので、トレーニングはできるけど、咬むなど、反比例な成果を作り出してしまいます。
それそれの専門領域を敬い、任せることが出来てこその本当のプロです。
何よりも一番の主役は専門家ではなく、”飼い主さん”です。
ここを飼い主さんも専門家も忘れないことです。
そして、それに順じて”犬たち”です。
本当のプロは影武者です。
家庭犬の領域は教育する人、問題改善をサポートする人(欠如している部分を補う、原因を知る)、病気の治療で命を支える人、健康を支える人、犬の毛のケアができる人など、1人では主役をサポートできない分野です。
自分の意思を相手にしっかりと伝え、嫌なことでもその子に理解してもらわないといけないことを伝えることが親であり、責任であり、愛情です。
現実の嫌から逃がして、かわいそうと都合の良いばかりで、甘やかし、可愛がる人は親ではなく、無責任であり、虐めでもあり、自分だけがいい人になりたいだけの自己中です。
何が嫌で何がいいのか、犬によってふわふわ動くのではなく、ぶれない軸となる心をもって向き合うことができないと犬の安定はありません。
そのふわふわが、不安を招いて、メンタルの問題から異常に進展していくのです。
身体的病気でないかぎり、メンタルはそうなるきっかけと予防できることを欠如してしまったことで起こることがほとんどです。
もし、弱い部分があれば、それを補う実践サポートをしてあげないといけません。
犬としつけトレーニングを何してほしいのか?
私はやはり意思疎通だと思っています。
自分を犬を適切に理解できるようになっていき、犬も飼い主さんを適切に理解できるようになっていくことで、誤解も解けて問題も解決していきます。
その中立が行動カウンセラーの努めです。
治してもらうのではなく、問題は理解しあうことが大切です。
自分の主体性をもつことです。
あなたの意思で、どうしてそれをして、どうした理由でそれを選択したのか?この目的を自分で決めれば方法は色々なやり方もある中で、ゴールはたどりつけます。
目的を自分で決めず、相手に言われるがままで相手の成果を待っていたら、どんなにすばらしい方法を知って、教えてもらっても成果はでず、ゴールにはたどり着けません。
自由って楽じゃなく厳しいことです。
でも、指示された方が考えなくていいけど、ずっと言われてたら自分で生きるができないのも悲しいです。
どちらにしても厳しいのなら、自由を得る未来の厳しさを選択した方がいいです。
他責せず、自責せずに、協働しあえる協調が共生には必要です。
自分で未来を考え、必要な専門家のサポートを得て育てる。
責任主体で犬と向き合える親が増えていくことが、フェアな共生には必要です。
自分から逃げないように。
自分でしか、自分は助けられないし、自分は犬の一生を左右する責任を迎えたのですから。
