あの手、この手 | 家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

2021年11月でトレーナー&カウンセラー歴22年。
”イヌをなおさずして、問題を解決する”が私もモットーですが、そこに至るまでの様々なわんこ先生(犬達)と飼い主さんと歩んだ気づきのメッセージを楽しんで愛犬と共利共生を築いて頂けたら幸いです。

今日も外は危険な暑さ。

気を付けてお過ごしください。

 

今日は観音大功徳日と言われる日で、観音様がご本尊のお寺では法要が行われているところがあると思います。

私も職場近くの観音寺院にレッスンの合間に足を運び、ろうそく、線香をお供えし、観音経などの読経を唱えさせて頂きました。

抜苦与楽の為の慈悲の心を持って、穏やかな姿で救済してくださる仏様の姿を観ながら、自らの心にある仏性に気づき自分の心の中の仏性と本尊と一体になる気持ちで経を読む心得を習いましたが、仏像を眺めながら、私達の備わっている知恵を見直す、気づく鏡のような存在。

神社には神鏡がご神体であったり、自宅などの神棚の神鏡も自分を見返るうつし鏡なので、神道でも仏教でも同じだと思います。

 

色々な観音様がありますが、今日は十一面千手千眼観世音菩薩様について書こうかなぁ。

私の近くだと犬山市に寂光院という古刹があり、そちらのご本尊が千手千眼観世音菩薩様です。

犬山には不動明王様がご本尊の成田山も有名ですね。

リンとよくお詣りにいきますが、この観音様は合掌した姿の脇に42本の手があります。

人間ならありえなさそうですが、実際の手というよりも自分たちの知恵の形としては人間にも多くの手があります。

 

よく「あの手、この手」と聞いたり、使ったりすると思いますが、対策や助ける時にこの手でいくか?なんていますが、まさしく千手の手ですね。その手でやってみて、状態を観る眼があります。

頭に十一の面があるのは、その時に必要な顔をいくつか持つ知恵です。

私達にはそうした素晴らしい心の知恵が備わっているのに、ついつい文明の進化で心の知恵を見失い、文明に走って心失ってしまっています。

それが命の育み、生きる育みを誤る因だと私は思います。

科学的にと理論で育てられたらどうでしょうか?

そこに愛情や時には、叱ってくれることも愛情を感じることも必ずあります。

 

楽しいばかりで、嫌なことを避けがちですが、楽しいばかりの毎日って本当に楽しいでしょうか?

色々な苦悩があるからこそ、それを乗り越えた時、過ぎ去った時に喜びや楽しさを感じられます。

私があるお寺の住職に頂いた色紙で、今も大切しているのが「楽在苦中」という言葉です。

苦の中にこそ楽がある。楽が在るからこそ苦が感じられる。

苦楽を分けるのではなく、苦楽は一体でないと楽しいを感じるには苦が必要で、楽があるから苦が感じられるのです。楽だけなら楽と感じなくなったら、ただの苦でしかなくなります。

楽しいと苦しいの波にうまく乗れるようにするのが”生きる知恵”だと思います。

これが家庭犬トレーニングだと私は感じ、皆さんにも”共に生きる”を意義として指導させて頂いています。

 

今だけの遊びの楽しいだけを行っても、共に生きていくことを楽しめるための適応力や協調、自制心が育ってなければ、毎日が苦痛でしかなくなったら意味がないからです。

今は何でも楽しい、楽しいばかりですが、それで楽しさがわからなくなって暴れ狂い苦しみもがく犬たちが嫌ほど見てて、大切は軸を見失ったトレーニングはただの形のその時だけの快楽で、すぐに苦しみに戻ったら、余計に苦痛を強まっていきます。

 

同じ観音様の体を持っても、それぞれによって使う手が違いますから、手法は一つに決めつけず様々な手法があっていいし、それを良いとか良くないと選別しなくても、その状況に必要な手で救うのです。

毒をもって毒を制することが必要なケースもあります。

薬で逆に苦しむことだってあります。

今、何が必要なのか?その必要なことの手を提供できるようにして、色々な手があっても、救われたらいいのです。

最後は自分で生きる力を持っていくことが大切なので。

いつまでも助けてばかりでは、いけないしその辺りの知恵のある仏心は、必ず喝を入れて甘えを許しません。

 

あくまで自分で助かろうとする人に手を差し伸べているのです。

自分で歩かずして、助けてと駄々をこねている人に手を差し伸べても救えません。

知識の手ではなく、知恵は経験をしてこそ知恵になりますから、多くのあの手この手はやはり経験の数だけ手の数が備わっていきます。

目標は千手です。

 

365日、一日1本ずつ手を増やして3年修行したら千手に近づきます。

 

救いを求める時、信じて自分が努力することを誓ってこその信頼です。

自分の利ばかり求めて、祈ってもそれは信頼ではなく”取引”です。

最近は”取引”が多いのではないのでしょうか?

祈る、救いを求める責任と自分が改善し、そこから抜け出す努力をすることを誓うことが誓願になり、それが”礼儀”であり、相手への”感謝”でもあります。

 

あの手、この手に甘えていたら、その手を差し伸べた者が疲弊しダメになります。

手を差し伸べるのも、甘えさせない責任があるのです。

 

サポートする側と受ける側の相互努力がなければ、最終的には共倒れします。

溺れた人を助けに行った人が捕まれ、動けなくなって沈んで共に溺死するのはよくあることです。

溺れている人を助けるには、タイミングが大切ですし、助ける側は冷静に自分の命を守る責任を考えて実行しないといけません。

最近は、縋るばかりで自己努力から逃げて甘えて、不満ばかりが多くなっています。

甘えを許さない人を、ダメな人、嫌な人として、その場だけ甘やかしてくれる人にコロコロ変わっては、結局甘えを受けいれてくれる人は助けてはくれないので、最後はその人を批判する。

誰も信じられなくなって孤独になっていくのです。

 

すべて自業自得なのです。

千手千眼観世音菩薩様に合掌する時によく観てください。

きっと観音様もあなたに合掌してお願いしていることを。

持ちずもたれずで、共に生きるを是非、気づき気持ちを切り替えて愛犬との向き合い方を見直してみてはどうでしょうか?