梅雨明けして、夏真っ盛り。
岐阜は灼熱の日々です。
犬たち熱中症には気を付けてお過ごしください。
犬とトレーニングメソッド(方法)は色々な理念と方法が存在する。
私もクリッカーをはじめ、様々なトレーニング技法を学び習得しましたが、自分が行う上での選択としてその犬にあった方法をチョイスして行えばいいから、その方法のメリット、デメリットを踏まえて1つではなく、ステップの中に数種類の方法を組み込んで育てていきます。
”犬をどうトレーニングするか?”テクニックにばかり先行し、目的を見失っていることは多くある。
科学も必要だが、科学の理論によって犬を教える方法としては公平性あり、誰でも同じようにというが、誰でも同じようにという部分には疑問を感じる。
神経質な人、楽天的な人、悲観的な人、心配性な人、様々な人のパーソナリティーが存在するうえで、だれでも本当に同じようにできるだろうか?
学習理論がすべてのようになり、それで正しいという方法を行って満足してしまうケースがありますが、学習ではなく、関わりに問題があるのに、学習理論の方法を提供をしても正直無意味になる。
関係性は?そもそも、何を教えていき、生活していくうえでどんな適応が必要なのか?をまず確認することが大切な部分であり、ライフスタイルや飼い主さんをはじめとした家族などによって同じはありえない。
犬に優しいばかりに着目しすぎて、大切な自分を見失っていては、どんどん本来の目的から遠ざかり、自分たちの都合や楽しみだけを満たすことが良し悪しになっていき、そのための褒めるトレーニングになれば、楽しいかもしれないが、生活や生きるという上での育みを無視したものになってしまう。
実際、トレーニングはすごくできるのに、飼い主さんや他人を襲うという犬と飼い主さんと接することが私は多いので、余計にそのトレーニングは無意味ではないけどそれより必要な部分が抜けてしまい、どれだけ飼い主さんの指示をきけて、楽しく動けていたとしても、生活が安心してできないのでは、ちょっと何か違うように感じる。
逆に、あまりトレーニングはできないけど、安心と安全、適応力を持って生きられる術と力を育まれているフレンドリーな犬の方がよほど目的をしっかりと果たせていると思う。
犬をどうやって・・・その方法論争に私はいつもどうでもいいと思う。
犬と向き合う私たちはどうやって・・・と自分を見返ることがなく一方的に提供するばかりのアウトプットばかりでは、フェアでなければ共生でもない。
技法ばかり優れて満足しても、その犬が飼い主さんと意思疎通という呼吸が出来ていなければ、生きているとはいえなくなる。
犬の状況によって、また飼い主さんの影響によって、トレーニング方法は異なるので一つの方法に偏ると適応できなくなる。
一つの方法で育てようとしても、犬や飼い主さんのステージが変われば、それに応じた内容に変わっていくことが当たり前で、変化や状況に応じてアプローチは色々ないといけないと思う。
私はメソッド(方法)に振り回されて、目新しい方法に糸の切れた凧のようにふわふわしている状態で、何を導けるのだろうと思ってしまう。
軸となる基礎となる土台があってこそ、アレンジしてもぶれない、目的を見失わないで導くことはできますが、ふわふわしていたら、導くのではなく、振り回すになってしまう。
飼い主さんと犬たちが振り回される犠牲にしてしまう。
何故、クリッカーを選択するのか?その目的は??
何故ノーズワークをするのか?その目的と意味は?
せっかく声も出るし、感情を伝える素敵な器官があるのに、その感情を打ち消してまでクリッカーでしか良いを伝えないという理由は何だろう?
私がクリッカーを使う時はそれに対しての理由をもって使用しますが、もちろん、最終的には最高の心が届く声を使う。
皆が犬という相手ばかりをどうするか?に注目しすぎてしまい、自分たちの状態をどうするか?に関心がなさすぎる状態が今、一番気づくべきところではないでしょうか?
もともと、犬のトレーニングテクニックにはさほど興味がなく、むしろ、犬を見て自分自身がどうしていくべきか?を考え実行していくことを重視してきた私にとってはメソッドより、もっと大切な生きるための育みと育む親の意識や心の持ち方に視点をおくべきだと思います。
そうすれば、=で様々なメソッドが活かせると思うのです。
どんな素晴らしい方法にも得て、不得手はあり、得意とする部分を必要とする場面に使えばいいし、そのためには色々な方法を受け入れておくことが必要で、優しい??方法が本当に優しいとは限らないし、ケースバイケースに適応できるように、方法尊重と色々な視点を持つことが大切だと思います。
絶対いいもなければ、絶対悪いもない。
どれも良きところがあれば、よくないところはある。
光と影は2つ存在してこそ、命として働きが起こると思います。
光がなければ影は存在しませんから。
欠点のない方法はないということです。
どれが正しいとか、間違いとかではなく、何の目的をもって、何の意味があってその方法を行っているか?をわかって指導しているか?していないか?が大切だと思います。
プロになる前も、なってからも、私は「何故?」を大切にここまできました。
何の意味と何の目的と何を補う課題なのか?を自分が把握せずして、教えるのは無責任だからです。
毎日、レッスンを振り返り、自分自身の反省と見つけたところ、気づいたことはチェックする。
犬ではなく、自分と飼い主さんをまず振り返り、それを犬と照らし合わせていきます。
向上心のある人、もっと相手に良きサポートを実践する先生は、犬ではなく、人間側の状況を常に振り返り、起こらない予防策を見出しています。
自分自身もステップアップの為、スキルアップのための挑戦にも怠りません。
これは後継を残すための責務でもあると思います。
そのためには教官資格まで進んで、後継を担っていかないといけませんし、それがまた一番の学びと勉強になります。
最近は自己満足と科学論者になって、汗流す、血を流す、身を削りながら後継に残す心を修行している実践者が減ってきてしまっているように感じます。
自分の資格レベルの向上を無意味という人もいますが、あえてラベルでも級をあげていくことはそれだけ自分にプレッシャーをかけられるのです。
そして、それだけのスキルを認定されているという保証と指導する責任だと思います。
こうした自己成長の意識を見失い、メソッドばかりを追いかける姿勢に、それが連鎖して最終的に犬がその代償を背負わされているように感じます。
メソッドは皆素晴らしいし、皆間違っています。
常に常識は変化していくもの。
しかし、基礎は不変です。
20年まえからの10年間は色々な先生はやはり昇級にも熱心でした。
しかし、最近は専門学校生レベルの級のままで満足しているのは、怠惰の証だと思います。
勉強で優秀だから、いい指導者とは限りません。
共に汗を流してこそですし、一番大切なことは本や教科書では学べないのです。
師となった先生も、技術はもちろんですが、やはり人間として犬と向き合う心が師範だと私は思い、今も師範を追いかけています。
技術よりも心にどんどんと方向性が変わっていくことも実際に階段を上ってきてわかったこと。
若い時は科学だと手法にバカなくらいこだわり飾りをいっぱいつけて優秀さをアピールしてきたけど経験と共に飾りは邪魔になり、大切な心に目をむける、自分の心に目が向けられるように変わってきました。
犬育ては頭で行うものではなく、やはりハートで行うものになっていくところに戻っていくと私は思います。そうでないと、心失った現代の問題が解決されずに、心壊れていく犬も増える一方で同時に飼い主さんの心も壊れてしまうからです。
親って?育てるって?生きるって?何のために何が必要で、何をすべきか?
より具体的な真意をもって、犬たちと真っ向から向き合い育てあってほしいと思います。
お利口、大人しいではなく、意思もしっかり言えて、聴ける子が大切。
今一度原点を振り返る時だと思います。
犬は変わっていない。
人が利用心と都合で犬と向き合うようになってしまった。
正直に向き合い、心通わせる。
一緒に苦労して、一緒に喜び合う。
一緒にが最高のメソッド(方法)ではないかなぁ?
これも絶対ではありません。
しかし、私はぶれずに「共育」で家庭犬としての犬生と飼い主さんが共に生きるを楽しめる育みを提供していきます。
まだまだ自分も磨きながら。
教えるという最高の学びの機会を頂いている以上、皆さんからいっぱい学ばせて頂きます!!
