甘やかす・・これがどれだけ相手を苦しめるか?
考えたことはありますか?
その場の楽を与えることで同時に苦を感じる心にしたことになります。 逆もあります。
その場の苦を与えることで同時に楽を感じる心にもできます。
大切なのは、先見の明で考えた時にどちらを残すのか?です。
それを考えるのが大人の責任です。 保護者の責任です。 この責任は相手もそうですが、自分も苦難にならないようにすることもです。
指導とは、相互の先見の利を見据えたサポートであり、ガイドです。 意地悪や見下してるわけでも、何様でもなく、皆さんが自分を守れるように伝える責任として都合悪いことも言います。
守らず困ったと言われても私はあなたではないので、代わりにはなれません。
私は問題起こしたくないから最初にしっかりいい、みなさん自身の問題として、自分が乗り越える課題として意識して力や心得、意識を持って取り組み、犬たちに人間社会での生きるとは?は教え、互いが心地よく暮らせるように、共に努力していってもらいます。
因果応報そのものが、問題の本質です。 すべては自分の行ったことが結果となって返ってきているのです。誰でもなく自分自身が作った原因で、自分でその結果に苦しんでいる。
犬のせいでもなく、自分だからこそ、自分が変わらないと結果は変わりません。
犬だけを見た時に、それは問題の行動ではなく、犬として種の正常行動です。
なので、犬が問題な行動をしているのではないのです。
私たちにとっての苦痛を問題と言っているだけで、そもそもの問題行動は私たち人間なのです。
犬は人間社会のルールや常識なんて知りませんし、教えずに求められても混沌するだけです。
計画性を持って、教え育てるのが教育で、衝動的は感情任せは、狂育になると言われます。
甘やかして、かわいそうと言ってる人が、急変して犬をダメ、問題と呼び、犬を悪者にして直そうとする姿をイヤほどみましたが、可愛がり、心配する人は意外と相手の頑張りを褒めたりしないことが多いのです。
自己満足の世界です。 しかし、自己努力と自己防御できないと、満足感がなくいつも不安と不満が増えます。 依存の現象です。 自分を守るために、しつけ、それが犬を守るになり、社会を守るに繋がります。 自利利他は、責任主体じゃないとできないし、共生ができません。
自分を守る責任を果たしていないのです。
犬は殺傷できる強い生命です。
そんな子をやりたい放題にして、何でも要求に応えていたら、それが叶わない苦痛を感じるようにしているのが甘やかすことなので、だからケガをするのです。
犬を見下し、なめているのは人間です。
私は犬が好きではないとよく言いますが、犬が怖いのです。
彼等の強さを知っているからこそ、認め、その強さを出さないように自分を守る責任としてしつけを真剣に取り組みます。
結果、犬を守る責任となって、自分も守れるし、犬も守り、社会の安全を守る責任もできるのです。
かわいそう、嫌がっていると何でもやりたいようにさせて、結果、問題犬呼びして、薬漬けにして、ダメ犬、バカ犬呼びして、どうしたらいいかわからないし、適応できる力を奪われ自力でできないように甘やかされているから、這い上がれず堕落させて苦しませて、それでもかわいそうと何も教えないで甘やかす。甘やかすって犬ではなく、自分自身の甘えであり、自分の責任からの逃げです。
自分は被害者だ!と犬を悪者するって、これが優しいのでしょうか?
大人なら、咬まれないように工夫して、一人で対処できない時は助けを借りながらも自分で対処していく力をつけないといけません。
これをすぐに助けてしまうことも、指導者は親心で見ないと今度は指導者が飼い主さんを甘えさえて堕落させえ自己を守る力を奪い、堕落させて益々苦しめることになるのです。
甘えをよく「魔」と言いますが、魔が刺すとは、自力で頑張ろうとしている人に甘い言葉で逃がす時、ここに魔が刺すのです。
指導者がいくらその方が力つけられるように指導していても、かわいそうだからと横から甘えを許してしまったら、それは改善ではなく、力を奪って自力で対処できない依存者にさせてしまえば、甘えの連鎖は力を弱化しあって、どちらも自力で対応できなくなってしまい、共倒れにしてしまいます。
人間は人と人の間ですが、この間にすっと甘い誘惑で甘やかす人が慈悲魔と言います。
間に魔が入るから、昔から指導者と習っている人の間に口をはさむことをするな!と注意されましたが、これが魔の仕業です。
自分だけが良い人になれたら、それで満足で本当の助けではなく、逃がしただけで堕落した場所からは這い上がらせずに後は知らん顔です。
そうした魔を除けるために、憤怒の相で守っている姿がお不動様という仏様の姿そのものでしょう。
甘えに負けない、自分で自分を守る責任から逃がさないように睨み、魔を退散させて、助けています。あとは観音様の姿となって見守るのです。どちらも同じ仏様で別々ではないと言われます。
犬は魔除け的な存在とも言われます。
私たちの心の魔を退散させようと攻撃しているのかもしれません。
その心を無駄にしないために、犬を直すなんていう考えは持たない方がいいし、そもそも心理学ではそうしたことに抵抗がなくなる人ほど依存しやすいので、自力で対処することを指導しないといけません。
甘やかすという虐め・・犬が問題を起こすようにさせて、彼等に思い通りにならない苦痛を背負わせて苦しめているのです。どこまで甘やかして苦しみを強めていくのか?
笑いごとじゃなく、これは虐めです。
そして何よりも一番ひどい虐めは、自分で自分を虐めているのです。
それに気づかないことが一番の問題です。
命の声と真剣に向き合ってあげて、共に生きるための育みを共にして頂きたいと願います。
自利と利他で共利群生といい、共生の基本です。
我利と我利の我利我利亡者になったら、ガリガリになって何を得ても満足しない、満たされないようになり、苦しんでしまいます。
自利には責任が、我利には幼児性の欲があります。
本当に犬を守れる人は、自分を守れる人です。
犬のストレスの心配するよりも、自分の苦しみの心配をしてください。
その苦しみの改善が、自然と犬のストレスからの苦痛の軽減に繋がりますから。
犬の心配ばかりしている人ほど、自分に無防備で脅威にさらせれて生きていますが、同時に犬も脅威にさらさせてしまっているのです。
現代の日本人は甘えが強く、自己防衛が弱くなっています。
被害者になって、誰かを加害者にして擁護されますが、本来は攻めず攻めさせずが大人の責任です。これが自由の基本です。
被害者にならないこと、加害者にさせないことを犬と築いていかないといけません。
共に生きるためのしつけをしっかりした後には、ほめてしつけるしかできなくなりますから、それまでは基礎はしっかりといけないことはいけないと教え、じっと耐える時はそこでじっとしてリラックスすることを教え育ててください。
それが出来てこそ、自由に生きられる力が備わります。
好き勝手で協調のない子に自由は得られないのです。
共生をするためのしつけ・・人間と犬の相互視点で指導が必要です。
犬の学習理論だけでは、共生は築けません。
どうか、甘えという虐めで自分も犬も虐めない、そして他者に危害を加える脅威を起こさない責任を果たしてください。
自分の犬が他人を咬んで平気にしてたり、それでも甘やかすことをやめないのは、身勝手で無責任過ぎます。だからその犬は安心がなく、守ってもらえないから自己防衛のために攻撃せざるえないのです。
一人一人が自分を守る責任を果たすことこそ、犬が安心して暮らせる社会には必要です。
まずは自分を大切に守れるように努めてください。
