最近トレーナーっているのかなぁと最近思う。
トレーナーとして自信がなくなっているというよりも、いろいろと敏感になりすぎて本来の目的を見失い委縮しているように感じる。トレーナーのプロとしての自信を何故失うのか?
特に職業犬などの訓練士さんよりも一般家庭犬のトレーナーの委縮を感じる。
獣医療やトリミングなどの専門家に関しては他分野の専門家ではできない専門知識、技術の習得が必要な分野なので、自信をもってそれぞれ分野の発展に取り組めていると思います。
しかし、トレーナーの分野においては教科書で読んだり、理論だけで実質実技実習を受けて技術を受けてきていない人たちが、人間的常識で優しい方法とやってしまい、本来のトレーナーの専門技術に関しても介入しすぎて、トレーナーが本質を見失い主体性がなく、権威や科学の風にふわふわしてしまい、軸が抜けてしまってトレーニングの本来すべきことから外れてしまうことが、家庭犬のトレーナーは増えてきてしまっていることにこのままではという危機感を感じることがあります。
家庭犬のトレーナーさんも優しさというラベルに翻弄されて、実際は弱化させてしまい犬の適応力を奪いかごの中の鳥状態にさせて自力で生きられない子が増えていることを先輩訓練士の先生から指摘されますが、私はその言葉は事実だと思っています。
犬の生きるではなく、自分たちが嫌われない、負荷をかけないいい人になれる満足=報酬となり、そうなると犬を信じ、頑張ったことに褒めるのではなく、自分がいい親、優しい親、嫌なことをしない親になれるのが報酬になるので、それが満たされたらもう満足できるので犬を褒めるということができなくなっていきます。褒めるではなく、調子に乗らせる、煽てるになり、結局不都合や負荷の環境下ではかわいそうと逃がしてばかりでは、教育の本質を見失ってきているのです。
生きることすら、自分自身に様々な負荷がかかっています。
話すときは声帯に負担(ストレス)をかけますし、心臓が動くのも負荷がかかるし、呼吸するのも肺に負荷がかかっています。
誰かと生きるとは、思い通りにならないことだらけだし、気に入らないことも多くあり、また協調は社会動物として生きていく上でなくてはならない心ですが、やりたい放題で、何でも要求通りにして育てたらそれは協調欠如となり、動物的にはそれは「死」を意味することになるのです。
びくびくしてかわいそう・・そのビクビクに〇〇恐怖とかつけて、犬の恐怖症としてしまいますが、実際は、自力を奪う、生きる力を育てられずに自力がない、適応力のないものは動物では死ですから、根本は皆、死の脅威に怯えています。
トレーナーはトレーニングを提供する専門家であり、家庭犬の場合は、人間という異なる種と共に生きるという中で加わる様々な負荷に適応できる力と快を自ら得る術を教え育てていき、自らで生きる力を提供するためのものです。ウェイトや負荷をかけないトレーニングなんてそれはトレーニングとは言いません。
その基礎があってこその次の学習に進めると思いますが、学習以前の生命としての成長と発育を忘れて学習や科学に走っても、基礎というスタートが違っていたら、すべてが間違った方向に進んでしまいます。
人間はストレス社会と呼ばれていますが、ストレス社会は便利や快適環境からうまれるものです。
文明の進化と生命進化は比例しているとは言えず、むしろ反比例しているとも言えます。
特に戦後、日本人は自分の生きるという軸を失い、骨抜き教育で「いい子」が増えていきました。
それが犬にも進み、生きる力を奪われて苦しんでいる子を助けるのではなく、自分がいないと生きられないようにどんどん依存させて、自分がいい親になれている満足が社会的評価として大切になってしまい、子が苦しんでいることは他人事で、世間が・・などといって自分主義に変わってきてしまっているのが現代の見直さないといけない課題だと思います。
犬もこの20年でかなり委縮しているように感じます。
同時にトレーナーが自信なくなってきているように感じ、自分たちのすべき軸、本質を見失って迷子になっているように感じます。
海外の犬たちと飼い主さんを見ていると、やはり日本の犬や飼い主さんが悪いのではなく、その背景にある環境や情報が動物としての犬としての育みを見失う情報が増えているように感じます。
お利口じゃなく、やはり人間と共に生きる力と術を育まれていて、信じてもらっているから後押しされて頑張りを褒めてもらって自信を育ててもらっている本当の意味での褒めるトレーニングを受けている欧州の子たち。
日本は、生きる力と術を教え育ててもらえず、この子には無理と信じてあげられないから枠にはめられて後押しせずに逃がして、庇われる(力を得るチャンス奪われる)ことで自信をどんどん奪われていく、優しい親として認めさせる煽てるトレーニングになっていてしまっていて、生きることが苦しそうな犬が本当に増えて、私は違う視点からいつもかわいそうだと思っています。
トレーニングの基礎はやはり今一度トレーナーが学ぶ基礎として大切にしていかないといけないと思います。
命の育みは研究でも、実験室でもなく、やはり生命の本質的な行いで良い悪い、正しい間違いではなく、「必要」なことに軸を置くべきです。
心のワクチンという素敵な言葉があります。
ストレートにいえば、生きる上での様々なストレスに抵抗できる力を育むものなので、ストレス加圧トレーニングだと思います。
楽しいばかりではないから、楽しいし、生きていれば嫌なことだっていっぱいある。
その嫌があるから快を感じるように考え行動する力が付いていきます。
そのtrainingをして、生き抜く力を提供してあげることが愛情だと思います。
もう少し、トレーナーの皆さんもトレーナーとしての自信と軸をしっかりと再認識して、自信もって自分の領域の進化に取り組んでいってほしいと思います。
これ以上、本来の素晴らしい力を奪われ、人間感覚の優しさで動物としての犬の正常を異常にされ、どんどん弱って病気になるような動機付けを食い止める一歩を始めてほしいと願っています。
生命の育みに古いも新しいもなく、本来は本質は不変です。
増えることも減ることもなく、不生不滅が自然の道理で、自然の道理こそが一番の「科学」だと思います。
私はどや顔して生きられる強い子(もともとみんな強くて素晴らしい子ばかり)を磨いてあげられるお手伝いをこれからもしてあげたいと思います。
犬は本当に素晴らしい命です。自分よりも強いです。
だからこそ、見習うことも多いです。
庇うことは彼らを見下す最低の行為だと思います。
生命の育むができれば、自然と犬が自ら楽しんで動く学習ができて、厳しさ?なんて自然と必要ないというか、与えることをしても無駄で意味がないものになっていきます。
やっても何も影響ないから、やらなくてよくなるのです。
育みが出来ていないから、鍛えてあげて自信を取り戻させていることが必要になります。
その方は本心は辛いに、悲しいと思う。でも、こちらが逃げてしまったらこの子を一生この苦しみから解かれないのはもっとかわいそうだから、心鬼にしてやっているだけで本当ならそこまでしなくていいのです。
周囲からはひどい人と叩かれるでしょう。
その本質を理解せずに見た目の表面だけで、バッシングする人たちが一番実はひどいことをしている本人なのかもしれません。
人に嫌な役をさせて、バッシングするのは楽です。
嫌われてもいいからとその子を本当に愛して向き合うのはめっちゃ苦しいし、悲しいです。
本来はもっと手前からもっと小さく、軽い段階で行っていたらそんなことしなくていいことばかりです。
私はその見た目の行為より、その行為をしている意味と心を知り、理解することを大切にしたいといつも思います。
自分の努力不足で、犬も飼い主さんも苦しめ、またより苦しみを背負わせてしまうことをなくしていく努力をしないと、その嫌われ役をかって頑張っている人の本当のメッセージを無駄にしたことになります。
どちらが優しいのでしょう。
私はもっと教科書的、学問的以前に、もっと深く相手を理解し、見習う、見直すことが必要だと思います。
観音とは「主観」と「客観」を示しますが、その両方を観ることができる心の知恵を人間はもっています。それに気づきなさいというのが観音行といわれ、その実際の実行の慈愛の知恵が不動行だと思います。今は主観に偏りすぎてしまっているのです。
職場近くの観音堂に仕事帰りにお参りして、いつも自分と向き合う、見直すことをしています。
皆さんが元々もっている素晴らしい愛を狂わせてしまう「狂育」にならないようにして「共育」を目指してこれからも励みます。
トレーナーの皆さん、頑張って犬が生きることを楽しめる日本にしていきましょう。
