信用と信頼、そして間を大切にして人間になる | 家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

家庭犬共生共育トレーナー&共同生活問題カウンセラー田中利幸の気づきとぼやき

2021年11月でトレーナー&カウンセラー歴22年。
”イヌをなおさずして、問題を解決する”が私もモットーですが、そこに至るまでの様々なわんこ先生(犬達)と飼い主さんと歩んだ気づきのメッセージを楽しんで愛犬と共利共生を築いて頂けたら幸いです。

インフルエンザも減少傾向にはありますが、まだまだ油断ができない今日この頃。

次は花粉症もやってくる。私は花粉症としての症状として意識していないのですが、今年はやたら鼻水とくしゃみの連続で止まらなくなる時があった。風邪かと思ったけどとうとう花粉症デビューのようです。(泣)

 

犬と共に生きるにあたってこれ以下もなく、これ以上もない大切な関係目標はやはり”信頼関係”だと思います。

しかし、信頼関係って漠然に言っても今一よくわからない。

信頼関係がそもそも簡単に築けるのか?私は簡単でなくていいと思うし、自分は時間をかけてじっくり関係を築きたい。

その前に信用される自分になることがもっと先にしないといけないし、信用してもらってこそやっと信頼にすすめると思いますが、私達同じ人同士でさえ、簡単に信頼なんてできない。信用から共に取り組みながら信頼は築いていくもの。

インスタントに信用しろ!信頼しないとはどうゆうことだ!と犬に怒っても無理なものは無理だと思うのです。

私は幸いか不幸かはわかりませんが、体験型(経験型)学習”共に”という感覚も、状態も学んできました。

現場での叩き上げみたいなものです。

例えば、海外にいくと日本と比べて多国籍の人との共生があり、一方的なおもてなしという自己満足の日本の常識的良しとされることも逆に”おしつけ”になるように、相互理解しあわないと共生ができない環境での生活になる。

日本は比較的自分の常識が通用する中で慣れ親しんでしまうと、こうした”相互理解”をしなくても生きられるし、自分が良くした、優しくした、大事にした=相手を大切にしている=だから受け止めるのが当然で、それを拒否するものは許さない!という感じの”怒り”が多いように感じる。

 

伝えなくても理解しろという生き方ができるからこそ、理解しないやつ=問題!となっていきやすい環境でもあります。

私も学生時代から色々な国の友人との交流もあり、途中から親の離婚で継母東欧の人と暮らすことになり、まさしく異文化共生の家族になっていきましたが、ここでは日本人とか〇〇人という中で異なる常識、文化の中で衝突や不満、苦痛が必ず発生する。

理解するのが当たり前ではなく、理解する努力と伝える努力がないとそれこそ”共生問題”が発生します。

異文化共生を憧れる人もいるけど、そこには相当の努力と理解しあう、認め合う意識と敬意がないと共倒れにもなりうるのが人間同士の共生ですら問題が起こる。この時のストレス苦痛は相当なものなのです。

ましては犬となれば、種が異なるのですからこれ以上にホスト側にもゲスト側にもかなりのストレスが生じて当然なのです。

こうした異なる文化、常識の相手と暮らすことになれていない人ほど、人間は基本は自分は優しくて、いい人という前提で考えるので、犬にも最初から優しい人と思われていることを前提にスタートする。ここに人と犬との問題の種があるのです。

 

自分は間違っていない!この犬がおかしいという考え方になって当然で、だから”犬の問題行動”という流れになり、犬をなおして望み通りになればそれで満足、いい子だ!お利口だ!となるのが日本人の志向です。これを良い悪いですぐに考える人がいますが、そうなりやすい環境におかれているということを”知る”こと、それを”認める”これで初めて”相互”の理解と伝えるが成立します。

何も教えないでいて、〇〇人は勝手に冷蔵庫を開けて食べるとか、〇〇人は・・と本当に成人前もよく私も聞きましたが、彼らはそれが当たり前で何も悪い事ではないし、自分達の常識では自分の欲しいものは自分で取りにいくのが逆に良い事なのです。

それを教えもしないで文句ばかり言っていたら、これは教える努力をしなかった側の問題になるのです。

ここでも日本の文化が壁となり、ストレートにいうのは失礼とか、お客様に対してとか、伝えることが良しとされていない文化であり、逆にそれは受け入れない空気も同時に出しています。

日本では、”様”がつくように、”飼い主様”になっています。

 

共生問題でも、伝えたら望んでいないことを言われたら怒るし、伝えないと何で教えないんだと怒る。

伝えようともしないけど、受け入れようともしていない・・それが日本の中だけにいるとわからないけど、海外に出て自分を見るとそれが日本人としての自分です。日本人は何を考えているのかわからない!とよく言われるのはここであり、昔は差別用語のように島国根性とかお山の大将と呼ばれましたが、自分の常識に慣れ親しんでしまうとこうした自分に気付けなくなっていることが一番私は危ないと感じました。

自分がわからないということは、相手もわからないから、自分を知ろうとしなければ、相手をしろうともできません。

ある意味、犬と共に暮らすということは、種の違う者同士が共に生活をすることですから、上記のようなことでコミュニケーション障害が起こり、問題が起きているのだと共生学的視点から見たら、そう言えます。

犬と暮らすには、”日本人から日本人間”になるための修行が必要だと思います。

 

迎えた直後はそれぞれのプライベート空間と安全基地と時間を提供し、スキンシップは控えます。

それはマナーであり、相手への思いやりです。

まずは撫でることよりも美味しい食べ物でもどうですか?とお近づきになるための挨拶期間を設けます。

相手に選択権がありますから、そこから徐々に交流を望んできたらお互いに程よい距離と時間を保って、過度にならない程度で関わります。

こうした日々を重ねる中で、一緒に活動する楽しみを提案してみます。

それがパピートレーニングだと思います。その中で関わりの輪を徐々に広めていき、あくまで犬が選択できるようにしながらスキンシップよりも多くのお土産でも届けて仲良くなります。

そうして友好関係になった頃に、少しだけ軽いふれあいを始めます。人間同士でも異性と手をつなぐドキドキにしているかもしれません。

そこから友情が芽生えてきたら、そろそろ互いの主張を伝えあいながら意思疎通を通じて、悩み、喜びなどを繰り返していきながら相互理解深めていきます。そこに友愛が相互で感じられた時、共にいることが安心しあえる存在として認め合うことができます。

ここからがやっとパートナーとして共に紆余曲折しながら絆を深めていくステップを命続く限り深めていけばいいと思います。

子犬を迎えたのなら、そのプロセスにプラスして、生きる状況に置かれる環境に適応できる力を育んであげないといけません。

楽なことは教えなくてもいいですが、この世で生きる以上、現実は拘束や抑止、協調がない状態はありえません。

それに適応できるように、寄り添い教え育んでいき、生きやすくしてあげることが教育だと思いますし、人も完璧ではありませんから失敗もするし、間違いもします。その中で共に育っていけばいいのです。

 

常に見直し、反省しながら成長していくのが人間です。

犬は今を素直に生き、学びに忠実に生きていきます。人間にとっての良し悪しは関係なく、その種の持つ行動や思考、そして共に過ごした人から学んだまま素直に行動します。反省という概念は彼らにはないのです。これも劣っているのではなくそうした種なのです。

人間が勝手に優劣を作っているだけで、素なのです。

その素を理解し、どう育ててあげられるかを考えるのが”大人”です。

大きな人ですから、寛大に受け止め、広い心で受け止めながら共に歩みながら教え導ける人が大人です。

子どもは小人ともかきますが、素直に生きるのです。喜怒哀楽をストレート表現し、自分を満たすことが大切な時です。

子どもから大人に成長し、親になっていきます。

子犬は成犬へと成長していきます。

 

大きな地球で生きる大人、自己世界で生きる小人。

犬を迎え、教え育てるのは大人の務め。

地球人となって、地球犬と共に育つことができたら、素晴らしいパートナーシップだと私は思います。

その為には上記で説明した、関係を築く”間”を持てる人になって初め人間です。

考える間を与える、お互いの間を大切にする。

人間は受け入れ、そして伝えられます。間が犬も安心安全を保障されて育ち、安心という信用、信頼になります。

関係がまだ確立していないのに、間合いを忘れるから”魔が差す”のです。

それが咬傷事故です。私は咬傷は”問題”ではなく”事故”だと思います。

犬にしてみたら、それは”事件”です。自分の安全を脅かされ、まだ安全が確認されていない状態で一方的に一番大切な体に接触されたのですから、それは命に関わる”事件”です。

 

触りたいから触る・・犬だからOKとはいつ、だれがそう決めたのでしょうか?

彼らも意思、感情、心もありますから、私達と同じく、知らない人に突然と触れるということが嬉しいよりも脅威でしかないのです。

ライオンを撫でようとしないのに、犬は撫でるのも私は人と先入観だと思います。同じ動物です。

人も動物です。突然と可愛いからと触れば犯罪です。そしてそれが心の傷となれば、恐怖反応や自己防衛で攻撃をするのも人でもそうであるように犬も同じです。

叫ぶ犬達・・こないでくれ!と必死に狂いそうになって訴えている姿、来ないでと全身を使って訴える姿、止めて欲しいと唸り、咬み訴える姿、彼らのこの必死の叫びを盲目となってしまい、自分達の都合のいいように情報を変えてしまうのも人の怖さであり、それも人間の素です。

だからこそ、それも否定ではなく認めて知ることで、それを防ぐことができます。

 

事件に遭った子を治すとか、事件を起こしている子の理由も無視して、人と理想やプライドを保持するために相手を平気で痛めつけることもできてしまうのです。言葉の繋がらない環境で、自分の不快を伝えてもわかってもらえない苦しみ、心の痛みを想像してみてください。

仲間もいない、たった一人で理解できない、理解してもらえない状況で暮らすという現実を。

そのなかでまた意味がわからない体への痛み、触れらせる苦痛、暴力、脅す、心への傷を負い続ける辛さにもし自分がなったらどうでしょうか?異国に一人で行くと、人同士ですら悪気はなくても少なからずこうしたことも経験するのです。

あの不安、わかってもらえない苛立ち・・それをぶつける彼らの気持ちを理解することが私は、咬む、吠えるなどをする犬達と向き合う飼い主さんに何よりも優先して欲しいことです。

何故、そうしないといけないのか?一緒にすぐにわかってあげられないかもしれないけど、直すという前に必然性と必要性を理解してあげることが大切です。

その後は、その必要性(ほぼ脅威や苦痛からの回避)をなくしてあげる改善をし、間を大切にして脅威をなくし、安全と安心を約束し続けることで、傷は消えないかもしれないけど、癒されていくと私は思います。

 

人間も頭では理解できないのです。

経験と体験を乗り越えて、初めて理解できてわかるのです。

勉強でどれだけ優秀でも、そうした苦しみ、痛みは経験しないと理解はできません。

服従訓練と言いますが、服従訓練を自分が受けてくればそれがどうゆうことかわかります。

できない苦しみ、頑張ってもできない苦しみも経験がないとわかりません。

それを打開できるのも、実は自分でしかできないのです。

誰かに助けてもらおうと思っても、乗り越えたり、もしくは道を変えたりして”工夫””想像力”が生きるには必要です。

犬と生きるってまさしく”工夫””想像力”の連続で、常に習う、見直し、気づきを得て成長していくことで、理解力も高まり、相互理解しあえるように成長できたら、それが信頼に繋がっていくでしょう。

そのプロセスはHow toは色々な進み方があると思いますが、目的と目標を見失わないことが大切です。

こんな最高の成長の学びやプライドを捨てて習えるということは他にないと思います。

 

苦しみがあるからこそ、楽しみを感じられるお陰様。

悲しみがあるからこそ、喜びを感じられるお陰様。

本来の日本人は日本人間でした。

この苦と楽の”間”を理解し、”道”という文化を築いてきた自然共生の国であり、人間でした。

お陰様こそが感動という心の栄養となり、心が生きる(これを性とも表現します)大切な栄養であり、成長の糧になります。

初詣などでみなさんがよく行く神社も”神教”ではなく“神道”です。ではなくです。

これが日本の文化であり、命です。だから無宗教というのもこうゆうことです。

 

犬から築く大切な人間性についてまた今度書こうと思います。

長々と失礼しました。

相互理解しあい、教育を提供できる自分育てと、共に生活する犬に教育提供できる文化がこの日本に普及し、人と犬ではなく、”人間と犬の共生”を築けたら私はそれが人生の目標でもあります。

笑いたい人は笑えばいい、批難する人は批難すればいい。

自信もって先生から経験学習で得たお金では買えない大切な財産を人間と犬の共生の為に活かしたいと思っています。

短い一生を一途に歩める人生も大切にしたいと最近は思います。

 

 

私の仕事は橋だと思っています。

橋を蹴り飛ばせば、渡れなくなるけど泳げばいける。

いれば便利、いなくてもいい。

活かすも殺すも人次第。